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(冒頭のみ公開/約2,400文字/文庫本5.5ページ分)

 その青年は美しく、清潔感があってほがらかだった。

 

 いや、じつのところ、青年だったのかどうかもよくわからない。三十路を迎えたばかりだった私よりずっと若いようにも見えたし、けっこう年上のようにも見えた。それから男にも見えたし女にも見えた。とりあえず、初見で不快な感じはしなかった。

 

 彼(と仮に言うことにしよう)は、「犬を飼ってみたいんです」と言って私のところにやってきた。それはまあ、愛玩犬ブリーダーを訪ねてくる理由といったらだいたいそうだろう。ただ、彼の場合、「ブリーダーではないほうの」私にそう言ってきた。つまり、本業に従事しているときの私に。

 

「犬に関する本をお探しですか」

「いいえ。あ、はい。そうだけど、そうじゃないんです、ブリーダーさん」

「ここにいるときはたいてい司書さんと呼ばれるんですが」

「そうですか。でも、ブリーダーさんでしょう?」

「まあ、そうですね」

 

 ひさしく音を忘れていた小さな私設図書館に、私たちふたりの声だけが響いた。

 

「といっても、ブリーダー業は副業だし、主に妻がやっているんですよ」

「へえ、奥さんいるんですね」

「ええ、まあ」

 

 ガラス張りの壁の向こうは木枯らしだった。傾きかけた陽に、図書館の狭い庭が黄色く光っている。その向こうの駐車場はいつもどおり、ほとんどカラスの遊び場と化していた。このご時世にわざわざ紙の本を求める人間なんて、研究者でなければよほどの物好きくらいしかいない。たとえばここのオーナーのような。

 

「妻とはドッグランで知り合いましてね。ふたりともブリーダーを目指しているということで意気投合したんです。念願かなって一昨年からごく小規模な活動をはじめましたが、それだけではとてもやっていけませんので」

「ここはあなたの図書館ですか?」

「いいえ、オーナーが別にいますよ」

「雇われ司書さんなんですね」

「絶滅危惧種です。本と同じ」

「絶滅危惧種」

「オーナーの口癖です。本は絶滅危惧種なので見つけしだい保護しなければならない」

「司書さんも保護対象?」

「まあ、そうでしょう。難関国家試験を通らなければ司書は名乗れないのに、そのくせ需要は極端に少ない。そんなのをみんなやりたがると思います?」

「いいえ」

「でしょう。でも、いなきゃいないで困るんです。国立中央図書館の司書にいつ欠員が出るかもわかりませんから」

 

 ほとんど愚痴だった。青年の目は無垢で、青年の口は決して私を否定しなかった。だからするすると引き出されてしまった。その感覚は、家で犬たちを相手にしているときとよく似ていた。

 

 実際、彼は犬だった。

 犬だった、のだと思う。

 

 本当のところはわからない。私のような一般人にとって、医療犬の存在は当たり前だけれどもそれほど身近というわけではなかったから。

 

 これでもし彼が医療犬ではなかったとしたら、私はとんでもなく失礼な人間ということになるのだろう。しかし彼に会ったひとならばきっと誰もがそう思いこんでしまうほど、彼は人間離れしていたというか、およそ人間らしくなかった。もっと正確にいえば、清らかすぎた。それはあまりに、私たちの持つ医療犬のイメージにぴったりだった。

 

「司書さんは大切にされているんですね」

「そうでしょうか」

「はい。とてもいいことだと思います」

 

 彼は偽りのない笑顔でそう言った。それが本当に自然な、宗教画のような笑みだったので、私はそのとき医療犬に関するうわさをほとんど信じるしかなくなった。すなわち、彼らは一部のひとが猛烈に批判するような劣悪な環境に閉じ込められているわけではないということ。むしろ彼の言葉を借りるならば「大切にされて」いて、こうしてときおり私たちの生活にまぎれこんでいるということ。私たちはそれと知らずに接しているのだということなどを。

 

 であるならば、医療犬が愛玩犬を飼うということも、場合によってはあり得るのかもしれなかった。

 

「それで、犬を飼ってみたいとのことですが」

「はい」

「少しお待ちいただければ、子犬をお譲りすることはできます。いまはまだ生まれたばかりなので」

「いつごろまで待てばいいですか」

「初雪の降るころまで」

 

 青年は数秒考えるそぶりをしてから、うなずいた。

 

「じゃあ、待ちます。初雪の降るころまで」

 

 残念そうな表情に、どこかほっとしたような色が混じっていた。私は提案した。

 

「どうでしょう、お待ちになるあいだ、ここの本を借りて読んでみるというのは」

 

 彼はずいぶんと驚いた様子だった。

 

「借りられるんですか」

「図書館ですから」

 

 とはいえ所蔵品の半数以上は禁帯出だ。私はとくに目印のないそれらを正確に見分けて、「なにを借りればいいのかわからない」という青年のためにいくつか見繕ってやった。やはりというべきか、彼は犬が表紙にいる本を選んだ。

 

「ああ、それは私も幼いころ、夢中になって読みました。紙の本ではなかったですが」

「へえ、おもしろいんですか」

「おもしろいというか、ほんわかするという感じでしょうか、いまとなっては。古い児童文学ですから」

 

 私はいくらか緊張しながら本のチップを読み取り、ついで彼の左手に端末をかざした。彼はそれを当然のように受け入れ、端末はなんの躊躇もなく貸し出しの処理を完了した。

 

「ありがとう、なんだかわくわくします」

 

 彼は言った。

 

「それはよかった。オーナーも喜びます」

 

 私は答えて、彼を見送った。それから自分の左手の、親指のつけ根のあたりを軽く押して、かすかなマイクロチップの感触を確かめた。貸し出しが問題なくできたということは、彼にも同じものが埋めこまれているということだ。つまり、彼の情報が、本の貸し出し記録とともに管理局に送られたということになる。正統な理由と、面倒な手続きをする意思さえあれば、彼の情報の開示を求めることは可能だった。

 

 しかし、私はそうしなかった。したところで断られたかもしれないが。

 

 だから私は彼の正体を知らない。知らないが、あのときたしかに彼はそこにいた。

 

 

 

 

 

(続きは製本版でお楽しみください)