(全文公開/約17,500文字/文庫本34ページ分)
それはもちろん、かわいいポポちゃんだわ。
もう何年前になるかしら、カチュアナさんが春のお庭でみなさんに問いかけをされたとき、わたくしはすかさずそう答えました。「お嫁入りの日、持ち物をひとつだけに制限されるとしたら、なにを選ぶか」なんて、まあ確かにお昼下がりの話題としてはちょっと品がなかったかもしれません。でもあのころのわたくしたちにとって、それはとても重要な問題でした。だって差し迫っているわけではないけれど、決して遠くもない未来のことだったのですもの。
「ルニさまは本当に随一の愛犬家でいらっしゃいますわ」
カチュアナさんがほほ笑んで、お茶を一口お飲みになりました。わたくしたち三人もそれにつづきました。ただお一人、ジョシルさんだけがむっつりとして、カップをお持ちになりませんでした。あの方はいつもそういうところがあったので、わたくしも周りのみなさんも、あまり気にはしていなかったと思います。
それより、カチュアナさんのお茶の素晴らしかったこと。
彼女はずいぶん裕福な商家のお嬢さんで、わたくしたちがお宅にお邪魔すると、いつだって聞いたこともない珍しいお茶でもてなしてくださいました。――ええ、まあ、それを鼻にかけるきらいはあったといえるでしょう。けれども基本的にはきちんとわきまえた方でしたから、わたくしは彼女がとても好きでした。それに、その日の彼女のドレスは素敵なお茶と見事に調和していて、感心したのをよく覚えています。
お茶は透きとおった青色をしていました。ほのかなミントの香る水面に、すみれのジャムを落としてかき混ぜたときのときめきといったら!
きっとジャムはカチュアナさんのお宅で手作りしたものだったのね。お庭のすみれもそれは綺麗で、わたくしはしきりにため息をついたものです。もちろん、そこにポポちゃんがいたからこそなのですけれど。
ポポちゃんは、みなさんがお連れになったご自慢の愛犬たちと、お庭でかわいらしく戯れていました。そんな彼らの姿が、わたくしたちのお茶会を一層豊かにしてくれたことは言うまでもありません。実際、わたくしたちが集まる目的はそこにありました。そうです、わたくしたちは愛犬家仲間だったのです。
正しい血統の犬や新しい品種の犬を飼うことは、一種のステータスやたしなみとしてとらえられることもありますから、こうした交流も珍しいことではありません。でも、同じ年頃で同じ趣味を持つ、しかも同性のお友達となると、なかなか得がたいものです。わたくしたちが仲よくなったのは当然のことでした。
はじめはお父さまに眉をひそめられたものですが、わたくしは友情を貫きました。お父さまのお気持ちもわからなくはありません。わたくしの愛犬家仲間は幾分慎ましい家柄の方ばかりで、カチュアナさんのお父さまのように爵位をお持ちでない場合もありましたから。
そういえば、最近ますます商家の方々のご活躍が目立つようになってきたのは、たいへん結構なことだと思います。彼らの働きは陛下もお認めになっています。ぜひこれからもわが国の発展のためにがんばっていただきたいものです。
それにつけても、カチュアナさんのご一家は、本当に残念なことでした。
いまはどこでどうしていらっしゃるのかしら。あの頃のお友達ならばなにかご存じなのでしょうけれど、わたくしも、ほら、もうこういう立場ですので。美しい友情も身分による隔たりを越えることはできないという現実を、悲しいけれども受け入れなければならないのです。みなさんがお変わりなく過ごされていることを願います。
彼女たちのなかで、唯一わたくしと対等でいらっしゃったのは、ジョシルさんでした。いえ、単に家格では、という意味です。お友達との間に上下なんてあるはずもないでしょう?
ジョシルさんは、そうね、真面目で、控えめな方でした。
いつも黒髪を巻かずにきっちりとまとめていらして、髪飾りは、つけるとしても小さなピンをひとつかふたつだけ。耳飾りや首飾りも、あまりお好きではなかったようです。ドレスはレースとかフリルのほとんどないもので、大抵、冬枯れや夜空を思わせる、落ち着いた色をお召しでした。とはいえ、素材も仕立ても、一見気づかないような細かなこだわりの見える装飾も素晴らしく、さすがに洗練された感覚をお持ちなのだわ、と、わたくしは嬉しく思ったものです。
そんな彼女のそばには、どんなときでも必ずリョックがいました。
リョックは黒毛の、凛々しい雄犬でした。しなやかな筋肉をまとう大きな体、立ち耳の端正な横顔。ふさふさと揺れる尻尾は優美でやわらかいけれど、全体の印象としては隙がなく引き締まっている――ジョシルさんがあれだけ深く愛されたのもわかります。
リョックはジョシルさんのために、ジョシルさんはリョックのために生まれてきたかのようでした。それほどまでに二人が並んで歩く姿は、こう、なんと言ったらいいのかしら……ぴったり。そう、ぴったりでした。
うらやましいと思ったことはありません。わたくしにはポポちゃんがおりますもの。ただ同じ愛犬家として、素直に評価すべきことを評価しただけです。
わたくしのポポちゃんはたいへん人懐こく、みなさんにもよくかわいがっていただきましたが、リョックはジョシルさんに似て、なんとなくむっつりとしていました。とはいえお利口な子でしたから、いやな気分にさせられたことは一度もありません。むしろ礼儀正しくて、じゃれ合うポポちゃんたちを一歩引いたところから見守ってくれるのも頼もしく、とても好感が持てました。ジョシルさんのしつけがよかったのでしょう。
言うまでもなく、わたくしのポポちゃんだって負けてはおりませんけれど。
ポポちゃんは最新品種の子なの。当時は品種登録されてからまだ本当に間もなくて、一般の取引はされていませんでしたから、うらやましがられることが多すぎて困ってしまうほどでした。大切なポポちゃんが誘拐されやしないかとハラハラしたものです。もちろん、それはいまも同じ。希少な品種であることに変わりはありませんしね。
はじめて見たときは驚きました。金色の巻き毛、つぶらな瞳に上品な垂れ耳。なによりも小さな体の愛らしさといったらどうでしょう!
雄犬ならば、大抵のご令嬢よりも大きいのが普通です。ところがポポちゃんはその半分ほどしかありません。これで成犬です。さすがに抱き上げることは難しいけれど、ソファに腰かけた状態で膝に乗せるくらいでしたら無理なくできます。
改良に改良を重ねて生みだされた品種で、いずれは猫と同程度にまで小型化できるだろうと聞きました。楽しみだこと。
わたくしはかねがね思っていたのです。犬はもっと愛されるべきだと。
研究者の方々によれば、わたくしたち人間は、気の遠くなるほどはるかな昔から犬に助けられてきたというではありませんか。そんな犬たちをただの獣のように扱う人の、なんと多いことでしょう。戦争に使うなどという計画があるとも聞きますが、もってのほかです。なんてひどい。
わたくしたちはもっと犬に感謝すべきです。敬うべきです。それはまあ、きちんとしつけや管理をしなければ危険があるというのもわかります。農村では野犬が問題になることもあるようですし。でもそれだって、はじめからわたくしたちが保護してあげていればよかった、ただそれだけのことでしょう?
そういう、かわいそうな子を増やさないためにも、わたくしたちが手助けをしてあげるべきなのです。人間がずっと犬に助けられてきたのなら、いまこそ恩返しをするときではないですか。
ですから、そう、かわいくしてあげるのです。もっと愛されるように。
それには小型化が最善の方法であるということは、もうおわかりですね。誰だって小さいものはかわいいと思うでしょう? かわいいものにひどいことはできませんもの。それに、もっと小型化が進めば、あまり広くないお宅でも犬を飼うことができるようになります。必然的に愛犬家も増えるでしょう。つまり、多くの犬が幸せに暮らせるようになるのです。
わたくしのこの考えに、「さすがはルニさまですわ」と真っ先に賛同してくださったのは、カチュアナさんでした。話をあの春のお茶会に戻しましょう。
「ルニさまのおっしゃるような社会になったらどんなに素敵でしょう。ねえ、アリン?」
彼女は少しだけ首をまわして、彼女の愛犬にほほ笑みかけました。
やわらかな風が吹きました。アリンの、灰色と白の混じった長い毛がふわりと揺れて、青い目は二度まばたきをしました。それから困ったように首を傾げ、
「でも、ご主人さま」
と女性らしい、しっとりとした声で答えました。
カチュアナさんは、アリンを人型にさせておくのがお好きだったのです。人型のときのアリンは、儚げな雰囲気の美女でした。
「そうなったら、わたしはもうご主人さまに愛していただけないのでしょうか」
アリンは気弱に肩をすぼめました。彼女の二の腕を、ゆったりとした古代風ドレスの袖がさらりと撫でました。
「まあ、アリン」
カチュアナさんが立ち上がり、少し見上げるようにしてアリンの頬に触れました。
「確かにあなたは大きいけれど、わたしの目にはほかの誰よりもかわいく映るわ。当たり前じゃないの。あなたがいいのよ、アリン。ずっとそばにいて」
すみれの香りが蝶の羽ばたきを乗せて、彼女たちを軽やかに包みました。
わたくしは胸があたたかくなるのを感じました。そして改めて思いました。すべての犬がこのように愛されるべきだと。
そのためには、やはり小型化がいちばんなのです。もちろん、カチュアナさんの愛情や、アリンの美しさを否定するつもりはありません。とても素晴らしいと思います。だからこそ、さらなる幸福を願うのです。
このとき、ポポちゃんは四つ足姿で遊んでいましたが、ふと動きを止めたかと思うと、一直線にわたくしたちのところまで走ってきました。わたくしがあわててしまったのは、その途中で彼が急に人型へと変わったからです。
「まあ、ポポちゃん!」
金色の巻き毛はそのまま頭髪になり、くるんと丸まった尻尾はしまわれました。手足はつるりとして長く、小ぶりな鼻や頬は白磁のようになめらかです。一見するとあどけなくも魅惑的な幼い少年ですけれど、当時すでに立派な成犬でした。それで、その、四つ足のときにはお洋服を着せておりませんので、なんの準備もなく人型になってしまうと……。
「いけませんよ、はしたない!」
わたくしは思わず悲鳴をあげてしまいました。
まったくポポちゃんときたら困ったものです。でもそれがまたかわいいのですからますます困ります。本当にもう、どうしてこんなに愛らしいのかしら!
みなさんの「あら、まあ」とお笑いになる声を聞きながら、わたくしがショールを広げてポポちゃんに駆け寄ろうとしたときでした。
「ルニさま」
ジョシルさんが鋭い声でわたくしをお呼びになりました。振り向くと、ジョシルさんはピンと背筋を伸ばして椅子に腰かけたまま、東洋風の刺繍扇子でお顔の下半分を隠し、こちらを睨んでおいででした。
呼びとめておいて、ジョシルさんはしばらくなにもおっしゃらず、動こうともされませんでした。ただ、視線だけは少しポポちゃんのほうへと流されました。それで、ポポちゃんは呼ばれたと思ったのでしょう。素直ないい子ですから、すっ、とジョシルさんに歩み寄ったのです。
「これ、ポポちゃんったら」
わたくしは今度こそあわててポポちゃんにショールをかけました。人型のときのポポちゃんは、わたくしの胸のあたりまでしか身長がありません。大判のショールは、ポポちゃんの足もとまでをうまく隠してくれました。
いつも首に巻いてあげている、わたくしが編んだレースのリボンを揺らして、ポポちゃんはジョシルさんを見上げました。
「ジョシルさま」
雄の成犬とは思えない、高く可憐な声が響きました。ポポちゃんは声まで完璧なのです。
「ごめんなさい。ご主人さまは悪くないんです。叱るならぼくを叱ってください、ね?」
そう言って右手を伸ばしました。その瞬間、ジョシルさんは逃げるように椅子から立ち上がり、一歩お下がりになりました。それからふいとお顔をそむけて、まるでポポちゃんの存在を無視するかのようにまぶたを閉じると、「リョック」と決して大きくはない声でご自分の愛犬をお呼びになりました。
リョックはすぐにやってきて、さりげなくジョシルさんをかばうように、彼女とポポちゃんのあいだに入っておすわりしました。四つ足姿ですから言葉はありませんでしたが、「承知しております、ご主人さま」とでも言っているようでした。
「用事を思い出しましたので、本日はこれで失礼いたします。ごきげんよう」
それだけを言い残して、ジョシルさんはさっさと帰ってしまわれました。
わたくしは、どうやら彼女を怒らせてしまったらしいと悟りました。ポポちゃんの振る舞いはとてもかわいらしいけれど、お行儀が悪かったことは確かです。謝らなくてはなりません。
ところがみなさんは、「お気になさることはございませんわ」とおっしゃいました。
「こうして集まっていても、ジョシルさまはいつもあまり楽しそうではいらっしゃいませんもの。正直に申し上げますと、少しやりづらくて」
カチュアナさんが苦笑すると、みなさんも同じようにうなずきました。
「やっぱり王太子殿下にふさわしいのはルニさまですわ」「そうです、それ以外考えられませんもの」「どうして陛下はまだお決めにならないのかしら」
思いがけず「王太子殿下」という言葉を耳にして、わたくしは頬が熱くなるのを感じました。
おやさしい年上の王子さま。わたくしたちみんなの憧れ。わたくしのはじめての……いいえ、最初で最後の恋のお相手。
殿下はこの一年ほど前に、一人目のお妃さまを亡くされたばかりでした。たいへん仲睦まじくお過ごしだったと聞きます。それもお腹の赤ちゃんまで一緒に亡くされたのですから、殿下のお嘆きはいかばかりだったでしょう。
本当ならばそっとしておいて差し上げるべきですが、やはりそういうわけにもいかなかったようです。国王陛下はすぐさま、殿下のご再婚に向けて準備をはじめられました。陛下のお子は殿下お一人で、それも陛下がずいぶんお年を召してからお生まれになったものですから、はやくつぎのお世継ぎを、というお気持ちがあったのだと思います。家柄がよく、若く健康で教養もあり、もちろんそれなりに見目もよい――そういう、いくつもの条件に当てはまる再婚相手候補として、わたくしとジョシルさんが選ばれたのでした。
つまりジョシルさんは、恋のライバルでもあったというわけね。
とはいえ、この時点ではまだ、わたくしたちのことは単なるうわさ話に過ぎませんでした。それはまあ、殿下のもとへお嫁入りできたならどんなに幸せかしら、と、わたくしは胸をときめかせましたけれど、そんな慎みのないことを口にできるはずもないでしょう? それに、ジョシルさんとの関係を壊してしまいたくなかったのです。
「ジョシルさまは賢くて思慮深いお方ですわ。きっとわたくしのためを思って、あのような態度でお示しくださったのでしょう」
わたくしはみなさんにそう答えて、「のちほどきちんと謝罪にうかがいますわ」とつけ加えました。
カチュアナさんがほう、とため息をつきました。
「ルニさまは本当にご立派でいらっしゃいますわ」
ほかのみなさんも納得してくださったご様子で、わたくしは、ほっとしました。この素晴らしい友人たちとの時間が失われてしまったことは、かえすがえす残念でなりません。
「ポポちゃんがこんなにいい子なのも、ご主人がルニさまだからこそですわね」
カチュアナさんにそう言われて、わたくしは首を傾げました。確かにポポちゃんはいい子です。けれど、ついさっき失態を演じたばかりなのです。
ポポちゃんはまだ人型のまま、わたくしのそばでおとなしくショールに包まれていました。カチュアナさんはポポちゃんとわたくしを交互に見て、にっこりとほほ笑まれました。
「ポポちゃんは、アリンを元気づけようとしてくれたのですわ、ルニさま」
わたくしは、はっとしました。そして自身を恥じました。なぜそれに気づかなかったのかしら。
犬は耳がいいので、離れた場所にいたポポちゃんに、カチュアナさんとアリンの会話が聞こえていたとしてもおかしくはありません。わざわざ人型になったのは、伝えたい言葉があったからでしょう。四つ足の状態では、どうしても鳴き声しか出せませんものね。
「そうだったのね、ポポちゃん」
わたくしが髪をなでると、ポポちゃんはなにも言わず、笑ってこちらを見上げました。それからショールを軽くなびかせて、アリンのほうへと歩いていきました。白くなめらかな素足が、ちらちらと覗いていました。それがアリンの目の前で止まりました。
「アリン」
呼びかけるポポちゃんの表情は、わたくしからは見えません。でも、アリンの表情はよく見えました。
アリンは、恋そのもののような輝きで、ポポちゃんを見つめていました。
「アリンは綺麗でかわいいし、カチュアナさまはそんな簡単にアリンを捨ててしまわれるようなご主人さまじゃないよ。見ていればわかるもの、本当はきみだってわかっているんでしょう?」
ポポちゃんがアリンの手を取りました。
「ぼくたち幸せだねえ、アリン」
ポポちゃんのレースのリボンが、陽光を透かして風に溶けました。
ポポちゃんとアリンを交配させることが決まったのは、その七日後のことでした。
わたくしとカチュアナさんのあいだでは、もうずっと確信めいたものがあったように思います。ただこちらの都合で、なかなか実現できずにいたのでした。もともと、わたくしがカチュアナさんたちと仲よくするのを、お父さまがよく思っていらっしゃらなかったこともありますし、ポポちゃんが希少な最新品種だからこそ、慎重にならざるをえない部分もあったのです。けれど、彼らの愛を引き裂くようなことができるはずもありませんでした。それに、ポポちゃんとアリンの組み合わせなら、絶対にかわいい子が生まれるはずですもの。
わたくしは根気強くお父さまにお願いしました。飼い犬どうしの交配には、当然、両家の合意が必要です。カチュアナさんのお父さまは喜んでおられたようですが、おそらく身分の違いを気にされてのことでしょう、あちらからのご提案は最後までありませんでした。わたくしはアリンの魅力やポポちゃんとの関係、その飼育環境に問題がないことなどを、お父さまに細かく説明しました。ときには夜通しお父さまのお部屋の前に居座ったりしてね。それで、ついにお父さまが折れたのです。「では、本人に聞いてみよう」と。
ポポちゃんがお父さまのお部屋に呼ばれました。しばらくしてわたくしもお部屋に呼ばれて、そこでようやく、お父さまから前向きなお言葉を聞くことができました。わたくしはもううれしくて、胸の前で手を叩きました。
「よかったわね、ポポちゃん」
ポポちゃんは「はい、ご主人さま」と、どこか艶めいた笑みを浮かべました。思わずドキッとしてしまうような笑みでした。
それからすぐにカチュアナさんのお父さまがいらっしゃって、めでたくお話がまとまったのでした。
お父さまたちはずいぶん真剣に話し込んでいらしたようです。長い時間、お二人でこもりきりだったものですから、もしや破談になってしまうのではないかしらと、わたくしは気が気ではありませんでした。杞憂に終わって本当によかったわ。
翌日、ちょうどアリンの発情出血が確認できたという連絡があり、わたくしはカチュアナさんと一緒にうきうきしながら交配の届出をしました。数日の審査のあいだに感じた期待と不安、それから受理されたときの喜びは忘れられません。
待ちに待った交配の当日は、朝から大忙しでした。ポポちゃんをお風呂に入れてあげて、毛並みや爪を整えてあげて、とっておきの服を着せてあげました。こういう大事なときには人型にさせておくのがマナーですけれども、そうでなくとも、着飾らせてあげるにはやっぱりこちらの姿のほうがいいと思います。カチュアナさんがとりわけ人型のアリンを愛しておいでだったのも、そういう理由があったからでしょう。女の子には、特にかわいい恰好をさせてあげたいと思いますものね。
準備を完璧に済ませると、わたくしたちは馬車に乗り、郊外にある繁殖用の犬舎へと向かいました。知り合いどうしの交配なので自宅を使ってもよかったのですけれど、万全を期すためにも専門機関にお任せしましょうということになったのです。
犬舎は思っていたよりも大きく立派な建物でした。田舎風というのかしら、緑に囲まれていてあたたかみがあって、意外におしゃれ。大勢の犬が思いきり走りまわれるくらいの広いお庭もありました。隅々まで配慮や手入れが行き届いていて、これならば安心してポポちゃんを預けられると思いました。
「ここで交配できるわんちゃんたちは幸せですよ」
というのは案内をしてくださった方の意見ですが、わたくしもそう思います。なんでも、その犬舎がいちばん格の高い施設なのだそうです。使用料なんて気にしていなかったけれど、かわいいポポちゃんのために最善の選択ができたのなら、それ以上のことはありません。
奥の静かな広間に通されたとき、すでにそこでお待ちだったカチュアナさんが、わたくしたちに軽く会釈をしました。そして、うしろに隠れていたアリンをそっと押し出しました。わたくしは息をのみました。
やわらかな白を重ねたシンプルな古代風ドレス。高い窓から射し込む春の陽光が体の曲線に沿って流れ落ち、アリンの足もとまでを照らしています。白と灰色の混じった長い髪は丁寧にくしけずられて、両胸にふわりと垂れていました。彼女を飾るものはただひとつ、小さな輝石を連ねた細いヘッドチェーンだけ。
「まあ、アリン」
わたくしはようやくそれだけを口にして、けれどそれ以上なにも言えず、アリンを抱きしめました。彼女たちはコルセットをつけませんから、肌の感触がはっきりと伝わってきました。彼女は緊張しているようでした。
「ルニさま」
カチュアナさんが、ゆっくりと膝を折りました。
「本当にありがとうございます、ルニさま。わたくし、アリンのこういう姿を見るのが夢でしたの」
わたくしはアリンから離れて、今度はカチュアナさんの肩に手を置きました。「なんとお礼を申し上げればいいのか……」彼女がそう言うのは、この交配にかかる費用をすべてこちらで負担したからでもあるでしょう。そんなことを気になさる必要はありませんのにね。
「お顔を上げてくださいな。わたくしもうれしいですわ、カチュアナさん」
飼い犬どうしの交配は、飼い主と飼い主、家と家との結束を強めることにもなります。だからこそお父さまたちは身分の違いを気になさったのですけれども、それはわたくしたちの友情には関係のないことでした。
「さあ、ポポちゃん」
わたくしが呼ぶと、ポポちゃんもやってきてアリンにそっと触れました。
「綺麗だよ、アリン」
それがはじまりの言葉となりました。
わたくしたちの神さまは彼らの神さまではありませんから、彼らがなにに誓ったのかは知りません。でも、それは本当に神聖な誓いに見えました。わたくしとカチュアナさんが犬舎の利用同意書にサインをしているあいだ、彼らは少しも動かず、寄り添いあうようにして立っていました。そうしていよいよ交尾に挑む彼らの背中を、わたくしたちは誇らしい気持ちで見送ることになったのです。
さすがにそこからは係りの方にお任せしました。繊細なことですし、邪魔をしてはいけませんので。それに、交尾のときは犬たちの野生の本能が呼び起こされやすいらしく、人がいては危険なのだそうです。交尾相手を傷つけてしまうことすらあるのだとか。ですから、そういうときや、交尾がなかなかうまくいかないときのために、係りの方はずっと隠れて見守っているとのことでした。
わたくしとカチュアナさんは、しばらく犬舎を見学させていただくことにしました。お庭に行くと、人の姿をした犬が三匹、飼育員の方と一緒に出てくるのが見えました。すべて雄で、この犬舎の所有する子たちだったようです。みな血統がよく、交配依頼があとを絶たないということでした。
彼らはくつろいだ様子で衣服を脱ぎ捨てました。犬たちが人型のときに着る衣服は、基本的に着脱のしやすい作りになっています。人の姿と四つ足姿、どちらにもすぐになれるようにするためです。アリンが軽やかな古代風ドレスばかり着ていたのも、多くの雌犬がコルセットを締めないのも、それが理由でした。裸になった犬たちは、つぎつぎと姿を変えてお庭に飛びだしていきました。もちろん、ポポちゃんたちもこのようにお庭を使わせてもらえるとのことでした。
交配の日程については、あらかじめ説明を受けています。お支払いする料金にもよりますけれど、ポポちゃんたちの場合は三泊四日――この日にまず一度交尾を行い、翌日はゆっくり休んで三日目に体調を見ながら再交尾、その後またしっかり休息をとって、つぎの日の午後に帰るという日程でした。そのあいだ、係りの方がつきっきりでいてくださるというので安心です。一通り見学を終えて、いろいろなお話もうかがって、さあ帰りましょうかというときでした。わたくしたちを呼びとめる声がありました。
「無事に交尾がはじまりました。ご覧になりますか?」
詳しくお聞きすると、それぞれの部屋には覗き穴があって、そこから中の様子を確認できるというのです。わたくしはなにげなく尋ねてみました。「ご覧になる方は多いのですか」と。「そうですね。やはりご自分のわんちゃんが心配なのでしょう。お帰りになる前に確認していかれる方が多いです」
ではそうしましょうか、と、言うまでもありませんでした。カチュアナさんはうつむき気味にこちらを向いて、おずおずと目だけでわたくしを見ていらっしゃいました。
「あの、ルニさま。……よろしいでしょうか?」
耳まで真っ赤でした。
「ええ、もちろん。よろしくてよ」
わたくしは快く答えました。
ポポちゃんとアリンは、四つ足姿でむつみあっていました。大きなアリンに小さなポポちゃんが背中から乗っかって、それはもう、床が爪で絶えず鳴るほど激しく。まあこんな一面があったのね、と、わたくしは驚いてしまいました。やっぱり立派な雄の成犬なのだわ、と。
ポポちゃんは希少な最新品種なので、もともと去勢はしないようにと言われていました。その場合、ちゃんと交尾をさせてあげなければ心身の負担になってしまいます。最初のお相手をポポちゃんの望むとおりにしてあげられて、本当によかったと思いました。
ふと隣を見ると、カチュアナさんは泣いていました。その気持ちもよくわかりましたから、わたくしは、そっと彼女の肩を抱き寄せました。
――と、そういうことがありましたので、ジョシルさんに謝りにいくのをすっかり忘れてしまっていたのですね。これは大変、と、わたくしはその翌日に急いで彼女のお宅へうかがいました。当然、ポポちゃんはまだ犬舎にいましたが、それがいけなかったのかもしれません。
ジョシルさんは、そのことを知ると急に顔色を変えました。
「わたくし、これから出かける予定がございますので」
そうおっしゃって、席をお立ちになったのです。いえ、まあ、その前から、いつも通りむっつりしておられたのですけれど。それでもちょっと怖いくらいでしたわ、あのときのジョシルさんは。お顔が青く見えるほどでしたもの。
やっぱり、ポポちゃんも連れていくべきだったのでしょう。お茶会のとき、ジョシルさんを不快な気分にさせたのは、ポポちゃんの振る舞いだったのですから。それが彼のやさしさによるものだったとしても。
ジョシルさんが立ち上がると、愛犬のリョックがその斜めうしろに寄り添いました。リョックは珍しく人型になっていました。切れ長の黒い目に長い黒髪。均整のとれた長身、端正な顔立ち。彼がもし人間だったなら、ご令嬢たちが放ってはおかなかったでしょう。
だからこそ、あんなうわさが立ったのだと思います。
いいえ、ありえないことです。どうか聞いてください。わたくしは、ジョシルさんの名誉を守りたいのです。
ジョシルさんは本当に素晴らしい愛犬家でした。犬に対する愛情の深さはもちろん、人と犬とをきちんと分けて考えるところが理想的でした。どんなに近くても、わたくしたちは違う生き物ですから、同じように考えてはいけないのです。それが彼らを尊重するということです。
そう、ですから、ありえません。彼女がリョックの子を孕むだなんて。
彼女が妊娠していたというのは――ええ、本当です。そのことについては、はっきり事実だと申し上げます。だってわたくしは、それを彼女本人から聞いたのですもの。
いま思えば、あのときわたくしが騒ぎ立てなければ、あんな大事にはならなかったのかもしれません。
あれは、夏に向かおうとする夜のことでした。国王陛下主催の音楽会があったのです。夕方まで降っていた雨のしずくが新緑を飾り、月明かりに輝きながら涼しい風を受けている、そんな夜でした。わたくしはポポちゃんを連れて、ジョシルさんはリョックを連れて王宮に参上しました。いざというとき、犬たちはとても優秀な護衛になってくれます。もちろん、きちんとしつけができていることが絶対条件ですし、個体差もありますけれど、そういう理由で、このような場に連れていくことが認められているのです。といっても、すべての方が愛犬と一緒に参加できるわけではありません。わたくしは気にしたことがないので、その条件についてはよく知りませんけれど。
わたくしたちは、歌やピアノやハープをつぎつぎと披露しました。ジョシルさんはさすがの腕前で、わたくしも聴き惚れてしまいました。王太子殿下も笑みを浮かべておられましたが、やっぱりどこか寂しそうなご様子なのが気にかかりました。
殿下のお心をなんとかしてお慰めできないかしら、と思ったのは確かです。でもね、決してわざとではないのよ。わたくしったら昔から音楽があまり得意ではなくて、しょっちゅうミスをしてしまうの。それもとっても間抜けなミスをね。そのたびに笑ってごまかしていたら、もう笑いが止まらなくなってしまって。気づいたら、その場にいらっしゃるみなさまが、お声をあげて笑っていらしたのです。
ええ、そう、王太子殿下も。
一通り演奏を終えると、国王陛下がわたくしにお声をかけてくださいました。「じつに個性的な演奏であった」と。わたくしはちょっと唇をとがらせて、「わたくしの腕に楽器がついてこられないようですわ」とお答えしました。陛下はまた豪快にお笑いになって、それからふと真面目なお顔をされると、「王太子のあのように楽しそうな顔をひさしぶりに見た。感謝する」とささやくようにおっしゃってから歩いていかれました。わたくしは思わず王太子殿下のいらっしゃるほうを振り向きました。それで、真っ赤になってしまいました。だって、殿下がまっすぐにわたくしをご覧になって、ほほ笑んでいらしたのですもの。
この胸のときめきを、おわかりいただけて? 殿下の澄んだ青い目がわたくしをとらえて離さないのです。そして少しずつ近づいてこられるのです。そんな奇跡ってあるかしら!
それからの時間は、まるで夢のようでした。けれど、はっきりと覚えています。二人きりのバルコニーで、殿下がわたくしの名前を呼んでくださったこと。またわたくしの演奏を聴きたいと言ってくださったこと。ポポちゃんのこともすでにご存じだったようで、ぜひ挨拶をさせてほしいと言ってくださったのもうれしくて。こういうところに犬を伴う場合は、当然ながら人型にさせておくのがマナーですから、殿下からお声がけいただければ、ポポちゃんだって同じ言葉でおしゃべりをすることができるのです。とても光栄なことです。
ポポちゃんはそのとき、わたくしのそばにはいませんでした。愛されるために生まれたポポちゃんですもの、わたくしは彼を護衛にしようだなんて考えたこともありません。ですから、いつもそうして自由にさせておくのです。きっと他の犬たちと楽しく過ごしているのでしょう。どこへ行っても本当にいい子にしていてくれるので、わたくしも安心して楽しむことができます。
殿下は、ポポちゃんとアリンのこともご存じでした。そうそう、このときにはもうアリンのお腹に赤ちゃんがいることがわかっていて、わたくしは飛び跳ねそうになりながらそのことを殿下にお話ししました。ちょっとはしたなかったかしら。でも、そういうところが好きだと言ってくださるのですもの、しかたないわね。いまとなっては、へんにおすまししなくてよかったと思います。お父さまがお知りになったら、雷が落ちてきそうですけれど。
自然、話題はカチュアナさんとの関係にもおよびました。大好きなお友達のことを殿下に聞いていただけるなんて、信じられないほどの幸福でした。殿下はときおりうなずきながら、あのやさしい眼差しでわたくしを見つめ、最後には「本当に仲がいいんだね」とほほ笑んでくださいました。心臓が飛び出るかと思ったわ。
それにしても、カチュアナさんが振る舞ってくださるお茶について、殿下があんなに詳しくご存じだったのは意外でした。わたくしはよくわからなかったのですけれど、あの青いお茶はとてつもなく遠い国からやってきていて、しかも流通経路が限られているのだそうです。「あなたと一緒に飲めたら幸せだろうけれど」だなんて、殿下が困ったようにお笑いになるものですから、わたくしはどぎまぎしてしまいました。
殿下は、そのお茶の生産国についてもいろいろと教えてくださいました。お茶だけでなく貴重な石も多く採れるらしくて――硝石といったかしら――でも宝石ではないのですって。つまらないでしょう? だからよく覚えていません。
とにかく確かなのは、カチュアナさんのお父さまがずいぶん力のある商人だったということです。それがなぜあんなことになってしまったのか……。ああ、カチュアナさんが恋しいこと。思い出すと寂しくっていけません。本当に、いまはどこでなにをしていらっしゃるのかしら。
飼い犬どうしが交配して子を生したのですから、わたくしとカチュアナさんも姉妹のようなものです。家と家との結びつきも強くなって、こちらが支援したり、逆にあちらの力をお借りしたりすることもありました。そういうわけで、わたくしは殿下にこう申し上げることができたのです。
「わたくし、カチュアナさんに青いお茶をいただけないかお願いしてみますわ。いいえ、青いお茶だけではありません。殿下がお望みのものなら、なんでも」
とにかく必死だったのね。でも、すぐに後悔しました。なんてことを言ってしまったのかしら、と。まだ正式に婚約すらしていないのですもの、あつかましいにもほどがあるでしょう? 謝ろうとしたのだけれど、それすらもうまくできなくて、涙が出そうになってしまって。思わず逃げだそうとしたところを、殿下の腕に引きとめられたのです。
殿下は静かにわたくしを抱き寄せました。わたくしの頬に触れて、わたくしの瞳を正面からご覧になりました。
そして、わたくしに口づけをなさいました。
すべてが輝いて見えました。夜空に散りばめられた星々も、バルコニーから見える庭園の草木を飾る雨のしずくも、一段と美しく。月明かりはわたくしたち二人だけを照らしているようで、きっと太陽もわたくしたち二人のためだけに昇るのだろうと思えました。
この一瞬が、わたくしの一生となりました。
だから余計に忘れられないのでしょう。ええ、よく覚えています。このあとに起きたできごともまた、鮮明に。
殿下が陛下のお召しに応じて行ってしまわれてから、わたくしは一人、バルコニーの手すりにぼうっと寄りかかっていました。とにかく頬が熱くて、少し肌寒いくらいの風が心地よく感じられました。なんだか現実とは思えなくて、けれど感触はしっかり唇に残っていて、それを確かめるたびに、駄々をこねる子どものように手足をばたつかせたい気持ちになりました。
ふと、バルコニーの下の庭園の、濃い茂みに目を向けたときでした。その陰から、見慣れた金色の巻き毛が現れたのです。ポポちゃんでした。
わたくしが声をかけると、ポポちゃんはいまにも泣きだしそうな顔でわたくしを見上げました。
「ご主人さま」
「まあ、どうしたの、ポポちゃん。なにがあったというの」
よく見ると、彼の着衣や髪は少しだけ汚れていました。
「大変なんです。ジョシルさまが、ジョシルさまが」
震える声で言いながらポポちゃんが指さしたのは、彼の出てきた茂みの、さらに奥のほうでした。これはただごとではないと思いました。とにかくポポちゃんにはそこで待つように言って、わたくしは庭園へと急ぎました。幸い、それほど時間はかかりませんでした。
ポポちゃんと合流して、茂みの奥に足を踏み入れました。するとそこに、案の定、ジョシルさんとリョックがいたのです。
ジョシルさんは暗がりに座り込んで、リョックの胸に上体を預けていました。靴が両足とも脱げてバラバラに転がっていました。なぜかむき出しになった右足の膝から下が、汗で濡れてほのかに光っていました。いつもあんなにきちんとまとめていらした黒髪は乱れに乱れ、意外と豊かな胸がせわしなく上下して、呼吸は苦しげながらもなんとなく甘く潤んでいました。
そのしどけない姿は、犬舎で覗き見たアリンにそっくりでした。
わたくしだってそこまで世間知らずではありませんから、なにが行われていたかは察しがつきます。けれど、本来ありえないし、あってはならないことでした。わたくしは混乱しました。白状しますと、わたくしもこのときに限っては、ジョシルさんとリョックの関係を疑ったのです。ただ、それにしては、リョックの様子が腑に落ちませんでした。
リョックはジョシルさんを抱きしめていました。恋人たちの抱擁というにはあまりに必死で、どこか傷ついていて、それゆえに攻撃的ですらありました。もしも秘密の逢瀬を人に見られたなら、普通はあわてて離れようとするでしょう。でも、リョックはわたくしたちを見るといっそう強くジョシルさんを抱きしめました。まるで敵から守るように。四つ足姿であれば、鼻にしわを寄せて歯をむき出し、うなり声をあげていたことでしょう。
それで、わかったのです。ジョシルさんは何者かに襲われたのだと。
もちろん、たいへんなことです。まだ犯人が近くに潜んでいるかもしれませんし、わたくしだって怖かったのですけれど、まずはジョシルさんを助けなければと思いました。わたくしはジョシルさんに駆け寄って、まくれ上がったドレスの裾を直してさしあげました。ジョシルさんはぐったりとしてなにもおっしゃらず、リョックも黙ったまま微動だにしませんでした。それほど恐ろしい思いをされたのだと思うと、胸が痛みました。
「ああ、ジョシルさま、なんてこと――いったいなにが、誰がこんなことを――いいえ、言いづらいのはわかっています、でもわたくしたちの仲ではありませんか――おお、おかわいそうに」
そうするうちに涙があふれてきました。こんなにひどいことがあるでしょうか。これでは、ジョシルさんは殿下の再婚相手になるどころか、もうどこにもお嫁に行くことなんてできません。
泣きじゃくりながら「誰が、誰が」と繰り返すわたくしを、リョックが鋭い目で睨みました。いまにも噛みつかれそうでした。すると、やっとジョシルさんが口を開いたのです。
「リョック、やめなさい」
不思議なほど冷静なお声でした。いま思えば、彼女はあのとき、すでにあきらめていたのかもしれません。リョックはそれでもしばらくわたくしを睨んでいましたが、やがて目を伏せ、おとなしくなりました。その直前に一瞬だけ、彼がわたくしのうしろにいたポポちゃんへ視線を移したように見えたのは、気のせいだったでしょうか。ポポちゃんがどんな顔でそれを受けたのか、そもそも受けなかったのか、わたくしにはわかりません。
本当は、そのままひそかにジョシルさんを送ってさしあげるべきだったのでしょう。けれど、どうか責めないでください。わたくしも動転していたのです。だってあんな状況になったら、誰が落ち着いていられるでしょうか。
つまり、こういう状況です。ジョシルさんが突然小さくうめいて、お腹をおさえました。それから地面にお顔を突っ伏したかと思うと、激しく嘔吐してしまわれたのです。しばらくなにも口にされていなかったのか、吐き出されたのはほとんど水だけでした。わたくしはうろたえながら彼女の背中をさすりました。そのうちに吐き気はおさまったようですが、彼女はお腹をかかえてうずくまったままです。呼吸はとても苦しげで、脂汗が浮いているのが見えました。わたくしは何度も彼女の名前を呼びました。でももう意識が朦朧としているらしく、返ってくるのは言葉にならない声や吐息だけでした。それでも、どうしても伝えたかったのだと思います。
「こどもが」
と、それだけは、はっきりとおっしゃいました。
わたくしにどうすることができたでしょう。あらゆるショックに弾かれて、わたくしは走りだしていました。そしてあらんかぎりの声で叫びました。
「誰か、誰か来て! ジョシルさんが!」
――あとは、みなさんがご存じの通りです。
のちに知ったことですが、この音楽会は、殿下の再婚相手を決めるために開かれたものでした。まもなく、わたくしは正式に殿下と婚約をしました。何度も二人で遠い国の青いお茶を飲んで、何度もこっそり口づけを交わしてから、わたくしたちは夫婦になりました。
ポポちゃんですか。もちろん、いまも一緒です。あの春のお茶会で宣言した通り、わたくしはお嫁入りの日にポポちゃんを連れていったのです。まあ、さすがに、王太子妃のお嫁入りの道具がポポちゃんだけというわけにはいきませんでしたけれど。
ポポちゃんがアリンと恋に落ちて、わたくしとカチュアナさんの仲が深まって、そのおかげで殿下との会話が弾んで、こうして結ばれることになったのですから、ポポちゃんはわたくしの恋の神さまです。ええ、本当に、最高の存在だわ。誰もポポちゃんに逆らうことはできないのです。国王陛下にもかわいがっていただけて、先日ついに陛下のお取り計らいで同じ犬種のお嫁さんを迎えました。二匹揃って、王宮でいちばん大きなベッドで眠るのよ。笑ってしまうでしょう?
ああ、アリンの産んだ子たちは、すべてカチュアナさんのお宅にさしあげました。ですから、いまはどうしているのかわかりません。思った通りのかわいい子たちでしたけれど、そうはいっても雑種ですから。
子どもといえば、じつはわたくし、少し前にジョシルさんとそのお子さんを見かけたような気がするのです。そうです、あのときジョシルさんのお腹にいた子です。もうずいぶん大きくなられて、ちょっと悲しくなるくらい質素な装いのお母さまと手をつないで歩いていらっしゃいました。金色の巻き毛がかわいらしい、元気な男の子でしたよ。
ね、だから言ったでしょう? リョックの子というのはありえないと。
だってリョックは、とっくに去勢されていたのですもの。
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