天翔る狼の標徴

(冒頭のみ公開/約3,300文字/文庫本7ページ分)

 

 雪深い針葉樹の森に銃声が響いた。

 

 イルクは濡れた鼻先を音のしたほうへと向けた。真っ白なにおいが、かすかに赤黒く染まっている。

 

「遠い。かまうな」

 

 一歩先を行くボルトゥが、短弓を肩にかけたまま振り向きもせずに言った。

 

「その程度の判断もできないのか」

 

 呆れたふうでもない、威圧的というわけでもない、ただ決してイルクを受けつけないというような調子はいつもと同じで、言われたほうの身をすくませるには充分だった。イルクは視線だけを上げて、ずっと高いところにあるボルトゥの後頭部を見た。

 

 何本もの細い束に編まれた黒髪が、薄暗い灰色の空に揺れている。毛皮の帽子から垂れる房飾りと、男らしい肉体を包む衣服の切嵌(きりばめ)や刺繍だけが鮮やかだ。腰に連ねた魔除けの木札がカラカラと規則正しく鳴り、魚皮の靴は四足で歩くイルクの顔面に容赦なく雪を()ね上げた。

 

 イルクは黙ってついていった。

 

 ウルカナハルの長い冬はまだはじまったばかりだ。いちいち気にしていてはきりがない。

 

 それよりもいま気にするべきは食糧のことである。今年はめずらしく二組の(つが)いが子作りに成功した。子どもは一族の宝だ。春に出産を控えた母親たちには、たっぷりと栄養をとらせてやらねばならない。もちろん、ボルトゥの新しい連れ合いとなったラィナナにも。

 

 ラィナナはボルトゥの子を宿してからますます美しくなった。いくらか目立ちはじめた腹をなでるときなど、それはうれしそうに、幸せそうに微笑む。幼いころよく一緒にいたイルクの前では見せたことのない顔だ。

 

 口の端からもれた吐息が、白く凍って後方に散った。

 

「おい」

 

 ボルトゥがイルクを呼んだ。いつのまにか、イルクとボルトゥのあいだには、ボルトゥの歩幅で五歩ほどの距離ができていた。

 

 あまり離れるとまたボルトゥの機嫌が悪くなる。反射的に駆け寄ったイルクは、そこでようやくボルトゥに呼ばれたわけを知った。

 

 獲物だ。

 

 まだ姿は見えない。だが匂いと音でわかる。手負いの鹿――と、これは野犬か。一瞬だけこちらを向いたボルトゥの目が、「おまえが真っ先に気づくべきだろうが」とイルクをなじった。まったくもってそのとおりだとイルクも思った。いま二足の形態をとっているボルトゥよりも、四足でいるイルクのほうが鼻や耳は利くはずだ。

 

 これだからイルクダイ(最下位のイルク)は。

 

 群れの皆の声が聞こえるようだった。否定するつもりはない。イルクがいちばんよくわかっている。そうだ、イルクは違うのだ。兄とは。ボルトゥバッシ(最上位のボルトゥ)とは。

 

 音もなく矢をつがえて歩きだした兄のあとを、イルクは慎重に追った。特別な指示がない限りは出しゃばらないほうがいい。下手なことをすれば、矢で射られるのはイルクかもしれなかった。いつやられてもおかしくはなかった。

 

 出来の悪い弟を殺したところで、ボルトゥはなんとも思わないだろう。

 

 少し行くと木々の向こうに斜面が現れ、その下りきった先に雪を赤く染める軌跡が見えた。さらにそれを目で追えば、思ったとおりすでに瀕死状態の立派な雄鹿が横たわっている。ただひとつ予想と違っていたのは、鹿の喉もとに食らいついているのが野犬ではなかったことだ。

 

 狼だ。

 

 たった一頭。群れの仲間ではない。よそ者の狼だ。

 

――まだいたのか、おれたちのほかに。

 

 イルクは驚き半分、喜び半分で目を見開いた。まだらに雪をかぶった灰褐色の毛並みは艶めいていて若々しい。それにあれは、雌ではないのか。

 

 思わず見上げたボルトゥの顔も、さすがに驚きを隠せないようだった。だが彼はすぐに目もとを引きしめ、弓を構えた。つぎの瞬間、その手を離れた矢の先が雌狼の右後肢をかすめて雪面に突き立った。

 

 短く高い悲鳴があがった。

 

 金色の目がこちらを向いて光った。鼻先から顔の半分、そして首もとまでを鮮血で染めた彼女の目が、イルクを見ていた。ボルトゥではなくイルクを。

 

「殺せ」

 

 平坦な声がイルクの耳を打った。イルクはボルトゥを振り返った。

 

「どうした、はやく行け」

 

 イルクはもう一度彼女を見、ボルトゥを見た。双方の立ち位置はまったく変わっていなかった。

 

「あれは我らの縄張りを侵した。逃げる機会を与えたのに逃げなかった。殺せ」

 

 逆らえるはずもなかった。イルクは跳ねるように斜面を駆けおりた。彼女のうなり声が近づく。白い息が流れてくる。むき出しの足裏よりも、背後からの視線が冷たかった。逃げるように彼女に飛びかかった。

 

 鼻先に食らいつく。前脚をかけて押し倒す。相手ももちろん黙ってはいない。牙をむき出して迫ってくる。二転三転しながら細かな傷をつけあうあいだ、イルクはずっと「どうか逃げてくれ」と願っていた。逃げて獲物を置いていってくれればそれでいい。はやくしてくれ。ボルトゥがまた矢をつがえる前に。

 

 頼むから。

 

 その願いが通じたのか、あるいはイルクごと突き刺すようなボルトゥの圧倒的な凄みを感じ取ったのか――おそらくは後者だろう――見知らぬ雌狼はやにわに服従姿勢をとり、イルクが力を抜くと身をひるがえしてあっという間に去っていった。あとにはほぼ無傷の獲物だけが残された。

 

 イルクは安堵した。同時に緊張した。勝手に息があがって、尾が縮んだ。

 

「おい」

 

 その声がすぐうしろから聞こえるまで、一歩も動くことができなかった。

 

「殺せと言ったはずだ」

 

 だめだ。これ以上は耐えられない。

 

 なんでもいい、弁明がしたい。イルクは腹のあたりにぐっと力を入れた。途端に全身が軋んで、妙な熱と目のまわるような感覚が一気に襲ってきた。永遠にも思える一瞬ののち、イルクの体は完全に二足歩行形態へと変化した。

 

「聞いてくれ、ボルトゥ」

 

 言いながら振り返る。瞬間、肩に強い衝撃を受けてイルクは仰向けに倒れた。

 

「おれは許可したか、イルクダイ。貴様に発言を許可したのか」

 

 蹴とばされ、胸を足で押さえつけられる圧迫感に息がつまった。毛皮のなくなった無防備な裸体が震えるのは、寒さのせいだけではない。

 

「……していない」

「そうだな。ならばなぜ勝手なことをする? 答えていい。答えろ」

 

 ボルトゥの足が離れていった。急に開放された気管に冷えた空気がなだれ込み、空咳が出る。それがまだおさまらぬうちに、上体だけを起こしてイルクは言った。

 

「あれは雌だ。それに一匹だった。はぐれ狼だ。群れに引き込めば子どもを産ませられる」

 

 イルクたちの属する群れは全部で十五頭に満たず、そのなかでも雌は四頭しかいない。うち一頭は高齢でもう産めないし、一頭は病気だ。残りの二頭は今年ようやく孕んだが、若さと健康な体を兼ね備えているのはラィナナだけだった。

 

 そのラィナナでも満足な子を産めるかどうか。

 

「外部の血が必要だ、ボルトゥ。おれたちは血が濃くなりすぎた」

「そんなことは貴様になど言われなくとも皆わかっている。当然のことだ。他の群れはとうに全滅したのだから」

「だから、まだ残っていたということだろう、現にあの娘があらわれたじゃないか」

「馬鹿が」

 

 ボルトゥの抑揚のない声が、イルクの肌に触れる雪の一粒一粒を震わせた。

 

「あれはウルカナハルの狼ではない。おおかた人間どもが連れ込みでもしたのだろう。そんなものはいらん。天翔(あまかけ)る狼の血を汚すだけだ」

「だがこのままでは」

「イルクダイ」

 

 ボルトゥが静かに片膝をついた。

 

「そんなにあの雌を孕ませたいか」

 

 冬の空にも似た灰色の双眸が、すぐそこで(きら)めいた。

 

「群れのなかでは誰にも相手にされないからな。欲しいのだろう、あれが。だが仮に手に入れたとて、おまえは拒まれるだけだぞ。選ぶのは雌だ。おまえではない」

 

 手のひらがじわりと濡れた。

 

「おれはおまえが傷つくのを見たくないのだ、イルク。弟よ」

 

 ああ、まただ。なぜこの男は、こんなにも。

 イルクは精一杯の抵抗を込めてボルトゥを見上げた。ボルトゥの顔面にはなにも浮かんでいなかった。

 

「だったら殺さなければよかったんだ。アンファも、リドーも」

 

 ボルトゥはしばらく黙ってイルクを見つめていた。やがて白い息を吐き出しながら立ち上がり、言った。

 

「野犬に孕まされるような狼なら死んだほうがいい」

 

 わかったらさっさと立って獲物を運べ。そう言ってイルクを見下ろす目には、あいかわらずなにも映っていなかった。 

 

 

 

 

(続きは製本版でお楽しみください)