生存戦略

(冒頭のみ公開/約3,500文字/文庫本8ページ分)

 夏のヒシビアはとにかく日が長い。高緯度に位置する国だからだ。作家はそれを知っていたが、空港の広い窓から見える薄明るい空と、デジタルサイネージに表示された「二十二時」という現在時刻を結びつけることは、なかなかできなかった。

 

「さすがに疲れたなあ」

 

 搭乗時に一度別れた同行者が、あくびをしながら言う。およそ十三時間ぶりに見る白髪交じりの黒ひげはいつも以上にパッとしない。作家はあえてそれに触れず、ただ軽く鼻を鳴らした。

 

 作家といえど無名である。だが売れていないわけではない。むしろ小説はそれなりに売れている。しかしだれもその名を知らない。知られてはいけないのだ。作家は、いわゆるゴースト・ライターだった。

 

 ヒシビア旅行は、その同行者でもある執筆依頼者――つまり表向きは作家の本の著者ということになっている人間の提案によってはじまった。夏のバカンスを兼ねた次回作構想のための二人旅。一種の取材旅行だが、依頼者の目的はただの物見遊山だろう。それならそれでよかった。作家はわけあって、自力で飛行機のチケットが取れない。というか単身での旅行ができない。もろもろの手配はすべて依頼者にまかせて、自分はただ彼についていくだけで海外旅行ができるというのなら、作家にとってそれほど魅力的なことはなかった。

 

「おお、ほんとにヒシビアだよ。ほら見ろよ、あの尖塔だよ」

 

 空港を出たとたん、依頼者がはしゃいだように前方を指さした。ようやく夜らしくなってきた空に、特徴的なシルエットが浮かび上がっている。よくテレビや本やネットで見るやつだな、と作家は思った。

 

「うん、そうだね」

「反応薄いな、おい。ええ、うそだろ? 『百合の眠り』はおまえだってよろこんで観てたじゃないか。あの名シーンの現場だよ?」

 

 ヒシビアは創作の題材にこと欠かない国である。華やかな歴史や文化にあこがれるひとも多い。かの有名な王妃ルニの時代はとくに人気で、彼女のドラマティックな人生のみならず、当時の華麗なファッションや空気、壮麗な建築物、美術、それらすべてに見える現実離れしたきらびやかさを、執念じみたこだわりで再現した傑作は数知れない。

 

「まあ、好きだけど」

「だったらもっとさあ、なんかこう、あるだろ?」

「べつに」

「ヤダー、スーパークールじゃん」

 

 いいんだけどさべつに、という依頼者のどこかうれしそうなため息を聞きながら、首都ツィバの中心市街地へと向かうバスに乗りこんだ。

 

 少しだけ開いた窓から、湿気のない涼しい風が入ってくる。通り過ぎてゆく灯りの色、バスのたてる音、なんとなく瀟洒な空気のにおいまで、なにもかもがいつものじめじめした夏とはちがっていた。

 

「ま、楽しそうでなによりだわ」

 

 依頼者のつぶやきが、排気ガスにまぎれた。

 

 もう十五年のつきあいになる。同居人という関係でいえばもっと長い。けれど、こうして一緒に旅をするのははじめてだ。

 

 ヒシビアを舞台に一篇書きたい、と言ったのは作家だった。普段は言わない。題材やアイデアは、依頼者が持ってくることになっている。彼は作家よりも博識で発想力もあり、なにより創作を愛している。ただセンスがない。壊滅的なほどに。それが(はた)から見ていてもどかしかった。だからといって、自分が代わりに書くことになろうとは思いもしなかったのだが。

 

 ヒシビアに特別な思い入れがあったわけではない。ただの思いつき、ほんの気まぐれ。強いて理由をあげるとすれば、そのときテレビ番組で取り上げられていたから。

 

「じゃあ行くか、ヒシビア」

 

 なんて言われることも、もちろん想定していなかった。

 

 どういう風の吹き回しだ、と言いたいのは、たぶん、おたがいさまだ。

 

 深夜近くなって到着したホテルはずいぶんと立派なもので、それこそ王妃ルニの時代のようなやたらと高い天井や豪華なシャンデリアの輝きに一度は目を見開いたものの、長時間の移動によって蓄積された疲労にあらがえるはずもなく、二人はそろってベッドに倒れこんだ。

 

 翌朝、これもまた二人そろって見事に寝坊したのは言うまでもない。

 

 朝食サービスの時間はとっくに終わっていた。もう昼に近い。手っ取り早くホテル内のレストランでブランチを済ませてもよかったが、せっかくだから外をぶらぶらしようということになった。

 

 フロントにキーを預けた依頼者が、先行してガラス張りのドアを開ける。作家がそれに追いついた瞬間、響きの異なる「おお」という声が重なった。

 

 重厚な石造りのアパートが整然と並ぶ街並みに、その中心までまっすぐ延びる広い道。雲ひとつない空からはカラッと明るい陽射しが降り注ぐ。道行くブロンドの髪がそれをまぶしいくらいに反射しているが、これは本物かどうかわからない。天然のブロンドは意外と少ないらしい、ということはなんとなく知っていた。

 

「いやー、ほんとにヒシビアだなあー」

「きのうからそれしか言わないね、あなたは」

 

 子どものようにそわそわと歩き出した依頼者を追いながらそっけなく返したものの、作家も内心では大きくうなずいていた。たしかに、中天に昇ろうとする太陽のもとで見るヒシビアは「本当にヒシビア」だ。昨晩感じたよりも濃厚な異国の風が、作家の鼻先をくすぐった。

 

「おまえいま腹鳴らしただろ」

「鳴らしてない」

「ウッソー」

 

 昼どきだからか、食欲をそそるにおいがあちこちからする。考えてみれば、だいたい二十四時間ほどなにも食べていなかった。

 

「しょうがないからおまえの好きなもん食わしてやるよ。なにがいい?」

「肉」

「けっこうがっつりいくじゃん」

 

 まあそりゃそうだわな、と依頼者が笑う。

 

「ちょっと待ってろ、いまおれの腹も肉モードにするから」

「なにそれ」

「基本肉食のおまえとちがってこっちはあのー、いろいろアレなんだよ。年齢的なもんとか」

「それはあんまり変わらなくない?」

「変わるわ。五十代なめんな」

「五十代初心者のくせに」

「人間だれしもなにかしらの初心者だ」

 

 ヒシビアの肉料理ってなにがあったかな、などとつぶやきながら手当たり次第に店を覗く依頼者の横で、作家も看板や窓ガラスの表示に目をこらした。そうしてすぐに気づく。

 

「犬同伴オーケーのところが多いね」

「あー、ヒシビアはわんこ先進国だからな」

「へえ?」

「犬の人権……人権? なんて言うんだこの場合、犬権か? まあとにかくそういうのがアレでソレなんだよ」

「うん、なにひとつわからないけどわかった」

 

 依頼者の言語表現はいつも感覚的すぎる。口で言うにしても文章であらわすにしても、自分のなかにある漠然としたものをどんな形であれ整えて伝えようという意思が感じられない。それでよく小説家を目指そうとしたものだと思う。

 

「さすがだなー。やっぱおれの理解者はおまえだけだわ」

「それはどうも」

 

 このやりとりも何度目だろう。聞き慣れない喧噪のなかで、作家は「けっきょくいつもの散歩とあまり変わらないな」と思った。それはそれで悪くない。

 

 ときどき路地裏へ入って、ひっそりと飾られた花の香りに癒されて、となりの通りに移動して、また手当たり次第に店先を覗いてまわった。それで最終的に移動販売車のサンドイッチに落ち着いたのは、なんというか「らしい」というほかはない。

 

「……なんだよ。入ってるだろ、肉」

「べつに文句はないけどね。おいしいし」

「だなー。レベル高いなヒシビア飯」

「そっちのもおいしそう」

「だめだめだめだめ、これはおまえ用じゃないの!」

 

 依頼者はそう言いながら、三分の一ほど残っていたサンドイッチを一気にかきこんで、ほとんど同時にあくびまでしてみせた。

 

「行儀が悪い」

「いやー、腹が満たされると眠くなるよな」

「眠くなるのがはやすぎる」

「時差ぼけってやつかねえ」

「まあ、たしかになんとなくすっきりしないよね」

 

 作家もつられてあくびをすると、その隙に依頼者の口が横からサンドイッチをかっさらった。

 

「ちょっと」

「今日はもうホテル戻ってごろごろするかー」

「ほかになにか言うことはない?」

「健康的な味がする」

「ちがう、そうじゃない」

 

 依頼者は答えずに、わざとらしく笑った。

 

「ま、時間はたっぷりあるからな。今日一日ゆっくりしたってなんにも問題はない」

 

 その視線はおだやかな空に向けられている。作家も同じように視線を上げて、サンドイッチの残りを平らげた。視界の端を、見たことのない鳥が通り過ぎてゆく。

 

「そういえば、日程とかなにも聞いてないんだけど」

「ああ、とりあえずここのホテルは一週間分おさえてあるぞ」

「へえ。さすが、稼いでるだけはあるね」

「おまえほどじゃねーわ」

 

 依頼者が、今度は自然に、静かに笑った。

 

 

 

 

(続きは製本版でお楽しみください)