何もない所だが、もとより然したる目的もないので逗留を決めた。
宿は中々結構なもので、女将の感じも善い。春になれば騒がしいが今は他に客もない、いい時にいらっしゃいましたと言う。
晩飯にはまだ早いので茶を所望した。変わった香りに、ん、と呟くと
「昆布茶でございます。ここいらの海で採れます、名産です」
と答える。
ははあ、これがと一口啜れば、温い旨味が体に染みる。
ぐっと飲み干すともう一杯、と勧められたが断った。何やら気分がよい、散歩がしたいと伝えると、何んにもございませんよと女将。
「海でも歩いて来るよ」
「寒うございます」
「それもいい」
「なら、どれ、すこうしお待ちくださいよ」
と外套を貸してくれた。
さて下駄を突っ掛け出てみれば、言わずもがな。浜辺に降りると黒い波がビョオと鳴った。ざんざざんざ、冬の海は先が見えぬ。しばらく吸い込まれていたが、ふと妙に思って立ち返る。
岩である。なぜだか墓標のようにも見える。
それが随分とテラテラ光る。眩しいくらいである。
またどうしようもなく眺めていると、欠けて足下に流れ着いた。
瓦だ。あれァ、瓦の山だ。
それがぽつぽつ続いているのだ。
どうにも気になるので辿ってみると、いよいよ気味が悪くなってきた。十、十五、二十、二十五、三十、四十……どこまで続くのか、いやにきれいに並んでいる。
引き返そうかと思った時、その先に一軒、ひっそりとしているのが見えた。
家というよりは廃屋である。もとは立派だったのであろうが、今では雨も凌げぬような有様である。
ヒョゥ、と鳴いたのは風であったか。それがひどくか細いので、いかにも寂しい。その、ヒョゥ、がよもや中から聞こえてくるのではあるまいなと思うと、なにやら底冷えがする。ふと何かゴソリと動いた気がしたので、慌てて宿へ帰った。
〇
風呂をもらって、部屋に入る。行灯がいい塩梅にチラチラしている。寒いからと炬燵をくれたが、いやどうにも、自分は苦手なのでいいですと言って火鉢にしてもらった。
海辺の宿らしく、魚とか貝とかの新鮮なのが、さっぱり仕立てられて出た。こういうのは素朴で、もしかすると家でも食えそうなのが善い。最近はベトベトする肉やら天ぷらやら外国のよくわからぬ料理やら、そんなのを合わせてしかも到底入りきらない量を出すところが多いからいけない。
他に嗜む者もないのでと、なにやら上物らしい酒も振る舞ってくれた。ありがたいがそれはいけない、持ち合わせが少ないのですと断ったが、お代は結構です、どうせ貰いもんですからと言うので、じゃァ、いただきましょうということになった。
この酒がまた不思議なのである。猪口の底に真珠を一粒、沈めて啜るのである。
「ビックリなすったでしょう」
女将が笑う。
「このあたりじゃア、みんなこうして呑むのかね」
「いいえェ、ほんとうはこうするものですけども、近頃はあンまりしません」
特別、ウチにはたくさんありまして、と髪を撫でる。なるほど、中々の真珠飾りが挿してある。
「まだほんの娘の時分、ここいらで一番の旦那様のところへ奉公に出ておりまして、随分いただきました」
大半は売りに出したがまだたんとあると言う。気前のいい旦那もいたものだと言ったら、昔はみんな持っていたほどよく産出ましたという。
「まだお屋敷が残っております、この浜を歩きますと」
そこではたと思い当たった。
「ひょっとするとそれァ、瓦の山の向こうじゃあないですか」
おや、ご覧になりましたか。あれねェ、大津波でも流れなかった立派なもので。どうです、酒の肴に昔話でも。自分はコックリと頷いた。
〇
「どうにもここは、貧しい土地でありました。漁もうまくありませんし、畑も痩せておりました。花も咲かなかったんでございますよ。
それが急に賑わったのは、ええ、旦那様がこの真珠をお持ちくだすってからです。ハテどこで手に入れたか、それは旦那様しかご存知ありません。けれどもたしかに、真珠はつぎつぎと湧いたんでございます。
旦那様には御嬢様がおひとりありました。なんでも本当の御子ではなかったそうですが、たいそう大切になすっておいでで、あたくしはそのお世話をさせていただいたんでございます。
お綺麗な御嬢様でしてねェ。なんとも甘い黒髪に、なんと申しますか、そう、丁度この真珠みたいなお肌がよく映えて。なにより、深い海色の目をしていらしったんです。
でも不自由で、歩くことも話すこともおできになりませんでした。ただ、月の晩、それは美しくお歌いになるのでございました。
旦那様もだいぶんお年を召しておられまして、あちこち悪くしていらしったものですから、御嬢様のお世話はだいたいあたくしに任してくださいましたが、御湯のお世話だけは必ずご自分でなすっておいででした。あァ、そうです、その時に、ヒョオオオオオゥ、ヒョオオオオオゥと、不思議な歌声が響いていたのでありました。
一寸おかしな気持になるくらい、仲のいいお二人でございましたよ。ひょっと、親子というよりはご夫婦のように見えることもございました。いえ、チョッとナンですけども、旦那様が御嬢様に傅いておられるような……。
ところがある日、突然、御嬢様が姿を消してしまわれました。方々捜し回りましたが、ついにお帰りにはなりませんでした。
それから急に、真珠はとれなくなりました。細工やら何やらで皆潤っておりましたから、それはもう苦しいことでございました。すぐに貧しい暮らしに戻ってしまいました。
あア、そう、これも不思議でございますが、同じ頃から、旦那様のお身体はすっかり良くおなりで、まるで十、いえ、二十はお若くなられたようでありました。
それで、もういいよと暇を出されましてね、その時に、すばらしい真珠を沢山いただいたんでございます。
それから旦那様はお若いまま随分長生きなすって、来る日も来る日も海ばかり眺めていらっしたそうですが、ある霧の日に小船を出されて、それぎりお戻りになりませんでした。
何年か経ちまして津波がここいら一帯を洗い流し、気づけば春の名所と呼ばれる豊かな土地になっておりました。その時に流れた瓦でしょうか、いつの頃からか毎年ひとつずつ、あの山が築かれるようになったのでございます」
その山は誰が、と訊くと女将は首を横に振った。
「私どもは、わたつみと呼んでおります」
猪口の底の珠が、リィンと鳴った。
これねぇ、雫が凝り固まったように見えますでしょ。「人魚の涙」と申しまして、旦那様がお考えになったんでございますよ――。
〇
明けて、再びあの家へ赴いた。
瓦の山は相変わらず鈍色の波に光っている。
ヒョゥ、とまた聞こえたので、貴方ですかと問うた。ヒョゥ、と二度答えたので、嗚呼、貴方ですかと二度問うた。それぎり答えなかった。
誰が生けたものか、花が二輪、戸口に飾ってあるのが見えた。
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