暁を抱いて眠れ


変声前のわずかな期間、少年たちだけに許される聖歌を捧げる行為――

それを専門とする「歌手」である十五歳のティセは、首席にのぼりつめながらも日々息苦しさに喘いでいた。

異教徒による侵略も勢いを増すそんなとき、聖都アルク・アン・ジェに待望の「神子」が現れる。

型破りな神子ヴァーニルとの出会いを通して、ティセは暗闇のなかに何を見出すのか。

大人と子ども、過去と未来、光と影、うそとまこと、羨望と渇望、祈りと願い、生と性。

あらゆるものの狭間で揺れ動く少年たちの、儚くも烈しい、一瞬と永遠の物語。(※一般文芸程度の性描写があります)


【製本版】

文庫サイズ(カバー付)/126ページ/500円

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Ⅰ 聖歌と少年

 

 

 

 腹の底から息を吸う。

 

 開いた喉を通り、冷えた空気が入り込んでくる。それはティセの体内であたためられて、旋律を伴い鼻先から抜けてゆく。

 

 硝子張りの天井から降りそそぐ光に、歌声が溶けた。

 

 アルク・アン・ジェ大聖堂の壁は音を吸わない。すべてはじき返して、響かせる。けれどむやみに反響させるのではなく、適度に抜け道を作って音を濁さないようにしてあるのは、さすがだ。なにせ千五百年もの歴史を持つ聖地なのだ。幼いころによく逃げ込んでいた、掘っ立て小屋のような村はずれの礼拝堂とはわけがちがう。

 

 ティセがここで歌うようになって、もう五年になる。

 どうすればこのすばらしい空間を活かすことができるのか、よりうまく共鳴させられるのか、熟知していた。

 

 朝露よりも透明だと評される高音(ソプラノ)を、思いきり遠くまで飛ばす。でも、張り上げるようなことは決してしない。足の裏から頭のてっぺんを抜けて、天までまっすぐに届くような、それでいて天空から包み込むような、やわらかな響き。それが、求められているものだ。

 

 全身を柔軟に、伸ばすように使う。息をよくまわして、針に糸を通すように細く送り出す。何度も、何度も練習して、ようやく体に覚え込ませた基本から、髪の毛一本ほどもはみ出さないように歌った。

 

 変声前のわずかな期間、少年たちだけに許される、聖歌を捧げる行為――それを専門にしているのが、「歌手」だ。

 

 ティセは十歳のときに大聖堂の歌手になった。それから一日たりとも、練習を欠かしたことはない。ティセのうしろに並んでいる少年たちだってそうだ。

 

 ただ、ティセはだれよりも美しい声を持ち、なおかつ熱心だった。だからこうして、ほとんどの曲で独唱ソロ)を任されている。

 

 ほかに音のない、静謐な祈りの場に、ティセの歌声だけが響く。

 その瞬間が、唯一、ティセの喜びを感じられるときだった。

 

 ただ、ひたすらに神を想って歌う。その間はいっさいを忘れられる。一対一の神との対話だ。邪魔するものはなにもない。

 

 熱さを感じるほどになった体を震わせて、この曲でいちばん高い音を正確に狙う。

 

 揺るぎのないロングトーン。

 その儚い余韻を残して、独唱は終わった。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 典礼を終え、大聖堂を出ると、そこには静謐とはほど遠い光景が広がっていた。

 

 ひしめきあう、人、人、人。

 みな、近隣諸国から逃げ込んできた人たちだ。

 

 聖都アルク・アン・ジェはどの国にも属さない。ゆえに信徒ならばだれでも受け入れられる。

 

 このところ、聖都の外では戦争が激化しているという。海の向こうの大陸からやってきた異教徒たちが、このドラグニア小大陸全土を我がものにしようとしているのだ。

 

 父や母や、弟も、もしかしたら難民の群れのなかにいるのかもしれない。

 そうは思っても、探してみようという気はティセには起きなかった。

 

 人混みを縫って歩く。ときおり、「もっと歌っておくれ」と声がかかる。そのたびにティセたち歌手の列を率いる「老師」が、難民たちをなだめていた。

 

 聖歌は必ず神に届く。熱心に歌えば、それだけ信徒は救われる。侵略者たちを退けることもできるのだ。ただ、それゆえに歌手は、一日じゅう休まず歌い続けるというわけにもいかない。

 

 喉を傷めては歌えない。歌手の人数も、聖歌を歌える期間も限られている。とくに大聖堂で歌うような優れた歌手の喉は、大事に守られるべきだった。

 

「ティセ」

 

 と、老師が振り向いた。六人いる老師のなかでいちばん若い彼は、顔にいくつか皺を作ってはいるものの、髪はまだ黒い。「老師」とはただの役職名で、実際に老いた人ばかりではないとティセが知ったのは、歌手になってからのことだ。

 

「はい、イエルノ老師」

 

 ティセが答えると、イエルノ老師はほほ笑みながら首を横に振った。声は出さなくていい、という合図だ。このざわめきのなかでは、どうしてもある程度声を張る必要がある。それによって喉がやられるのを防ぐためのことだと、すぐにわかった。

 

「昼食を終えたら、私の執務室に来てください。お話があります」

 

 かなりの長身に似合わない、甲高い声で老師は言う。指示のとおりに黙ったままうなずいて、ティセはすこし肘を引いた。難民に掴まれそうになったからだ。

 

 イエルノ老師はもう前に向きなおっていた。ティセも倣って、まっすぐに歩く。真珠色の空から薄く光が射していた。

 

 二月の風は、まだ、冷たい。

 

 聖都の中心にある大聖堂から、ティセたち歌手の寄宿舎まではけっこうな距離がある。自然と足は速まった。

 

視界の端に、修道院や巡礼者用の宿舎が見えた。それらも難民に占拠され、収容しきれないぶんは道にあふれている。これでは馬車も満足に使えない。

 

 ほんとうに勘弁してほしい。

 彼らが来なければ、ティセたちはこうして歩く必要もなかったのだ。

 

 彼らのために歌うつもりなど毛頭ない。どうせ普段はろくに祈りも捧げない連中だろう。

 

 ティセはちがう。幼いころからずっと、神の御心だけを信じて歌ってきた。だからいま、ティセはここにいる。

 

 こういう状況になってからというもの、週に四回、大聖堂と寄宿舎の間を往復する時間は、苦痛でしかたがなかった。

 

 その苦痛に耐え、寄宿舎に着いたころには、すっかり体が冷えてしまっていた。イエルノ老師とは門のところで別れたから、ここからはティセが年少の子たちを先導しなければならない。ティセはもう十五歳で、このなかでは最年長だった。

 

「ねえ、ティセ、おなかすいた」

 まだ見習いの子が袖を引く。

「そうだね、ぼくもだ。でもご飯の前に、しっかり体をあたためないとね」

「寒くないよ」

「こんなに手が冷たいのに? もしきみが風邪でもひいたら神さまがお嘆きになる」

 ちいさな手を取ってさすりながら、ほほ笑んだ。

 

 見習いの子はそれが嬉しかったのだろう。はにかみながら素直にうなずく。

 ティセは彼の手をそっと返してから、先に行こうとする集団に声をかけた。

 

「さあ、みんな、まずは暖炉であたたまろう。気分の悪い子はいない? 無理をしてはいけないよ、みんな大事な歌手なんだからね」

 

 少年たちが一様に誇らしげな顔で振り向いた。

 

 大事な。そう、大事な人材なのだ。ここでは決して、ティセたちが邪険に扱われることはない。

 

「あたたまったらお待ちかねのお昼ご飯だ」

 

 この声をないがしろにするような者は、必ず罰を受けるのだから。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 昼食はすこし物足りなかった。最近、量も質もどんどん落ちている。これもきっと、戦争や難民のせいなのだろう。

 戦争がはやく終わればいい。そう願うのは事実だから、ティセが歌うことは結果的に彼らを救うことにもなる。

 

 そう思うと憂鬱だった。ため息をついて、目の前の扉を叩いた。

 

「どうぞ」

 と、イエルノ老師の声が応える。

 

「失礼します」

 扉を開け、入室しようとしたところで足が止まった。ひさしぶりに見る顔がそこにあったからだ。

 

「サミー」

 

 二週間ほど前までは同室だった、ひとつ年上の少年だ。突然いなくなったから心配していた。体調を崩したと聞いていたが、もうよくなったのだろうか。

 

「お入りなさい、ティセ」

 執務机から、老師が言う。サミーはその隣に立っていた。柔和な笑みを浮かべるふたつの顔を交互に見ながら、ティセは指示に従った。

 

 パタン、と扉が音をたてる。

 

 イエルノ老師がサミーを見て、静かにうなずいた。サミーもまたうなずいて、ティセのすぐ前まで歩いてきた。

 そうして彼が

 

「やあ、ひさしぶり」

 

 と言ったとき、ティセはすべてを理解した。

 

 声が、かすれている。

 高く澄んでいた声が、不安定に揺れ、わずかに低くなっている。

 

 声変わりだ。

 

「……サミー」

「そんな顔をしないでおくれよ。いずれはこうなるって、だれだって知っているじゃないか」

 

 サミーの肩越しに、窓硝子に映る自分の顔が見えた。たしかにひどい顔だった。

 

 しかし、そうなるのもしかたがないではないか。変声期を迎えたら、もう聖歌は歌えない。サミーの喉は価値を失った。歌手ではなくなったのだ。

 

「サミー、これから、どうするの」

 ティセが問うと、サミーは振り返って老師を見た。答えたのは老師のほうだった。

 

「それをずっと話しあっていたのですよ。サミーにはこれからも、ここでがんばってもらいます」

 老師はにっこりしている。ティセはもう一度、サミーを見上げた。

 

「じゃあ」

「うん、寄宿舎の指導員になるんだ」

 サミーはふわりとした表情で、言った。

 

 寄宿舎には、歌手である少年たちだけでなく、その生活の世話をしたり、指導をしたりする大人たちも暮らしている。彼らの仕事には歌唱指導も含まれるので、当然のように歌手の経験者が多かった。とはいえもちろん、優秀で、性格も向いている者でなければ指導員にはなれない。サミーは選ばれたということだ。ティセにとっても、それは喜ばしかった。

 

「また一緒にいられるんだね、うれしいよ」

 ティセが頬をほころばせると、サミーも同じようにしてうなずいた。しかし、

 

「水を差すようで申し訳ないのですが、サミーが寄宿舎に戻ってくるのはどんなに早くても一年後ですよ」

 と、イエルノ老師。

 

 そうだった。サミーはこれから特別な勉強や修行をしなくてはならない。

 

 歌手は代表して聖歌を捧げることができるというだけの一般信徒にすぎないが、指導員はれっきとした導き手、聖職者なのだ。

 

 ティセはすこし下を向いた。

 サミーとは寄宿舎に入った当初から同室で、仲がよかった。それに、ひとつだけとはいえ年上の歌手がそばにいてくれるというのは、それだけで心強かった。でも、これでもうほんとうに、ティセは最年長になってしまう。

 

「ご安心なさい。サミーなら必ず、一年で立派な指導員になります」

 老師がおだやかに言えば、

「そうだよ、イエルノ老師がお導きくださる」

 と、サミーがティセの肩に手を置いた。ティセは曖昧な笑みを返した。

 

 指導員を束ねるのはイエルノ老師で、この執務室も寄宿舎の一角にある。歌手から指導員になる者は、直接イエルノ老師に師事することになっていた。

 

「さて、ティセ。きみをお呼びした理由ですが」

 

 甲高い声をさらに一段上げて、老師がティセの目を見た。自然、背筋が伸びる。ティセはしっかりと老師の正面に向きなおって、その言葉を待った。

 

「そういうわけですから、サミーはもう歌えません。これからは、サミーが担当していた独唱ソロ)もすべて、きみに歌ってもらおうと思います」

 それをお伝えしたかったのです、と老師は目を細めた。

 

 そわりと、胸が浮いた。

 

 もともと、独唱を任されていたのはティセとサミーだけだった。サミーが担当していたぶんもティセにまわってくるということは、つまり、すべてがティセのものになるということだ。

 

 首席歌手として完璧だった。

 

 五年間、だれよりも努力し、だれよりも正しく、美しく歌ってきた。やはり神は見ておられるのだ。これはお導きにちがいない。

 

「どうでしょう、引き受けてくれますか」

 老師が言うのに、

「はい」

 と即答した。

 

「よろしい。では、お話は以上です。よりいっそう精進なさい」

 

 そううなずくと、老師は細い手で扉を示した。一度頭を下げて、ティセは取っ手に腕を伸ばしたが、扉はすでにサミーによって開けられている。

 

「ぼくも行くよ。みんなに挨拶をしなけりゃ」

 それから彼はちらりと老師を見て、目を伏せた。まつ毛がわずかに揺れる。それはまるで、風に恥じらう花のようだった。

 

 

 

◆◇◆

 

 

 

 その夜、ティセはひとり、ベッドに寝そべって窓を見ていた。雲の向こうでおぼろげに光る満月が、ティセの頬や夜着の皺にやわらかく影を落とす。

 

 寝返りを打つと景色が変わった。サミーの荷物は、もうすっかり片づけられていた。

 

 隣の、冷たいベッドを見やる。

 最初の日、なかなか眠れなかったティセを、サミーがそこに入れてくれたことを思い出した。

 

 サミーは深みのある歌い手だった。歌声はいささか地味で、声量も声域の広さもティセに及ばなかったが、それでも彼の歌には層を重ねたまろやかさがあった。だれもがはっと息をのむ、きらめくようなティセの歌声とはまたちがう。そう、ティセが太陽を溶かした朝露だとしたら、サミーはちょうど、今夜の月だったのだ。

 

 ティセの月は、もう、いない。

 ティセの上にはもうだれもいない。

 

 最年長の、正真正銘、首席歌手だ。

 

 がばり、と飛び起きた。ベッドが大きく軋む。それもかき消すくらいの、乱れた呼吸が部屋じゅうに響いた。

 胸に手をあてる。ぎゅっと掴む。心臓がうるさい。

 

 最年長だ。

 サミーは十六で、ティセは十五だ。

 

 次はティセなのだ。

 

 サミーのように指導員になれるのならまだいい。が、ティセにはそんな未来は考えられなかった。

 

 だれかの影になるなんて、もうまっぴらごめんだ。

 

 年下の少年たちを見上げながら、彼らのために暖炉を焚き、食事を用意し、もう自分では歌えない聖歌の指導をする毎日など、ティセには耐えられない。

 

 眩暈がした。

 

 ティセは乱暴に息を吐き出し、それからそっと足を下ろした。冷えた床が爪先を刺す。それにはかまわずに立ち上がり、裸足のまま、部屋を抜け出した。

 

 ひどく喉が渇いている。窓のない廊下は暗く、静かだった。もう、みんな眠ってしまったのだろう。

 

 なにも見えない暗闇のなかを、歩く。

 

 障害になるようなものはない、まっすぐな廊下だ。それでも一歩一歩をたしかめるように歩くうち、足裏に感じるものは次第に冷たさから痛みへと変わり、やがて、ふっとすべてがなくなった。

 

 どこからか歌声が聴こえてきたのは、ちょうどそんな瞬間だった。

 

 かすかな、ほんとうにかすかな音だ。けれど、ティセの耳はそれを逃さなかった。

 

 聖歌だ。

 歌詞のない、竜の鳴き声を模した独特な音の連なりで構成される音楽は、聖歌のほかに存在しない。

 

 感覚のない足で床を蹴った。

 迷いもなく走った。

 

 知らない歌、知らない声だ。それも、とびぬけて美しい。

 

 ひょっとしたら、ティセよりも。

 

 真っ暗な廊下の先にある重い両開きの扉にぶつかり、ティセは一度足を止めた。ほとんど叩くようにして取っ手を探る。指先に当たった感触を頼りにそれを掴み、思いきり押し下げた。ぐっと前方に力を込めれば、ギィ、と鈍い音をたてて扉が開く。

 

 いつの間にか雲を退けたらしい月光が、ティセの目を眩ませた。

 

 何度かまばたきをして、目を慣らす。そうして改めて見ると、そこにはいつもと変わらない中庭が広がっていた。

 

 低い木々の間をかすかな風が渡ってゆく。中庭を囲む柱廊が、ほのかに白く光って見える。

 歌声は止んでいた。

 

 ティセはしばし呆然として、立ち尽くしていた。ほう、と漏れ出す息が白い。それを追うように、ゆるゆると口を開いた。

 軽く吸った空気が、じんわり腹であたためられる。ひそやかに、ささやくように、喉を通して送り出した。

 

 旋律が白い風に乗る。

 

 さっき、聴いたばかりの旋律だ。

 ティセの耳は一度捉えた音楽を離さない。そしてティセの喉は、それを忠実に再現するのだ。

 

 歌ってみると、いよいよそれは美しく、ティセの心をかき乱した。

 

 どこかなつかしく、甘い感じがする。たしかに聖歌であるはずなのに、ほかの聖歌とは似ても似つかない。これまでに習った音楽理論や作曲法からも外れていて、でたらめで稚拙にすら感じる。それでいて、ひどく自然にこの体や世界の色に馴染むのだ。

 

 胸の奥が熱くなった。

 そのときだった。

 

 低木が音をたてて揺れた。ティセの視界の右端、柱廊の影に追いやられた月明かりの吹き溜まりだ。

 

「……だれ?」

 

 風のしわざとは思えなかった。

 

「だれかいるの」

 

 ゆっくりとそこに近づいていった。乾いた芝草が足の裏をくすぐる。

 

不思議とおだやかな気持ちだった。こんな時間に、こんなところにいるのを見られたら、きっとお叱りを受けるだろう。いや、そんなことより、隠れているのが泥棒だったりしたらたいへんだ。でも、そんなことはどうでもいいような気がした。

 

「出てきて」

 

 低木がまた、揺れた。その根もとのあたりに、すっと白いものが現れた。

 

 細い、腕だった。

 

 腕はしっかりと地面を押し、いままさにそこを離れようとしている。指先が、月光をはじいた。

次の瞬間、ティセは息をのんだ。

 

 立ち上がり、まっすぐにこちらを見るそのひとが、あまりに綺麗だったから。

 

 透きとおる頬に、長いまつ毛が影を落としている。引き結ばれた唇は春を待つ蕾のよう。夜空を溶かしたみたいな髪がさらりと肩口にこぼれ、深い色の瞳は夜明け前の輝きを帯びていた。簡素な貫頭衣に包まれた体は華奢で、わずかにやわらかな曲線を描く。

 

「……女の子?」

 

 ティセと同じくらいか、すこし、年上だろうか。背は彼女のほうがいくらか高いように見えた。

 どうしてこんなところに、と問おうとしたところで彼女が口を開いた。しかし、その声を聞くことは叶わなかった。

 

「ああ、こんなところに」

 と、大人の声が割り入ったからだ。

 

「いらっしゃいました、こちらです」

 柱廊の向こうから、四、五人ほどの指導員が駆けてくる。さらにそのうしろから、イエルノ老師が顔を出した。

 

「おや、ティセ。どうしたのですか、こんな夜更けに」

 

 老師は昼間と同じ、柔和な笑みを浮かべている。ティセは背筋を伸ばして、顔を伏せた。

「申し訳ありません、老師。喉が渇いて、どうしても眠れなくて……」

 

 いいわけを、信じてくれたのだろうか。ゆったりとした足取りでティセの前まで歩いてきた老師は、膝を折り、

 

「それはいけませんね、すぐに白湯を用意させましょう。我慢すると喉に悪いですからね」

 

 まるでちいさな子にするようにティセを抱きしめると、ぽんぽんと頭を撫でた。イエルノ老師の、もしかすると女性よりもふっくらした胸が、ティセの頬を包む。

 

 この感触にはいつも驚いてしまう。ひょろりと細長く見えるわりに、こうして触れると彼の体は意外なほどやわらかいのだ。

 

 そうしているうちに、綺麗な少女は指導員に囲まれ、外套を着せられていた。なにか言いたげにこちらを見ているが、その唇はもうほころばない。

 

「それでは、ティセ。おやすみなさい」

 

 老師も、これ以上ティセのことを気にかけている暇はないようだった。あっけなく離れていって、少女の隣に並んだ。

 

「おやすみなさい、老師……」

 そう返したときには、彼らはすでに歩き出している。ティセはぼんやりとその背中を見送った。

 

 指導員がひとり、その場に残って

「おいでなさい、ティセ。白湯をあげましょう」

 と、ティセの背中をそっと押した。

 

 

 

 

(2章以降は製本版でお楽しみください。WEB版全文公開時期は未定です)

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