もう汗ばむ季節だというのに、厚手のコートを腕にかけている。男にその理由を尋ねると「ちょっと長くなるが、聞きたいか」としたり顔をされた。しまった。これは惚気話を始める人間の顔だ。
トランシルヴァニアの宝石・シギショアラの夏は好い。気温は高いが湿気がない。何より中世から変わらぬ街並みは美しく、それにちなんだ祭りも催される。だからおまえにはうってつけだろうと言われるままに来てみたが正解だった。ただひとつ問題があったとすれば、それはこの街の面積を把握していなかったということだ。
休暇はたっぷり一週間とった。旅程は極めてシンプルで、初日と最終日以外はすべてこの街で過ごすことになっている。しかし私は、旅行三日目の今日、早くも退屈していた。つまりこの歴史ある城塞都市はあまりに小さく素朴で、観光には一日あれば充分だったのだ。
明日からは祭りがあるから楽しめるだろう。だが今日これからをどうするか。周辺の情報は何ひとつ仕入れてこなかったし、これから調べる気力も行き当たりばったりに旅する行動力もない。さて困ったと朝からビールを飲んでいたところに、その男は現れたのである。
「もう何年前になるか。憂鬱なクリスマス休暇明けに、俺はこの街へ来た」
「あなたはルーマニア人じゃないね。なぜそんな時期にわざわざここへ?」
「なに、ちょっとした気分転換ってやつさ。なあ、俺にもビールを奢ってくれよ」
「奢りはしないが飲み仲間が増えるのは大歓迎だ。どうぞ、続けて」
男はちょっと笑ってから、ビールを注文した。
「この広場の先に時計塔があるだろう、あそこで出会ったわけだ」
「何に」
「吸血鬼だよ」
◆
男の話はこうだ。
街のシンボルである時計塔にはからくり人形が仕込まれていて、毎夜零時に踊り出す。男は新年を迎える五日前にこの街に来て、すぐにその深夜時計塔へ赴いた。けれども人形は動かず、鐘すら鳴らなかったそうだ。代わりに、ひとりの青年と出会った。
首が隠れるくらいの金髪に、陶器のような白い肌が月光に濡れて、ヘーゼルグリーンの瞳は茫洋と遠くを映す。上質なロングコートからのぞく素足は細いが適度に筋肉がついており、紛れもなく男のそれである。身長も平均より高いくらいなのに、しかしながらその纏う気配はどこか少女めいていた。
「ハッとしたね。あんな魅力的な男は他にいない」
「なんだ、そういう話なら遠慮したいな」
「違う違う、そういう趣味はないんだよ。俺にだってちゃぁんと女房も娘もいたし、見たこたぁないが孫も生まれたらしい。まあ今じゃ、会う手段もないけどな」
ここで男の頼んだビールが来た。軽くジョッキをぶつけ合い、同時に口をつける。
「これは失礼」と私が言うと、男は首をかしげた。
「いや、まさかそこまで年上の方だとは」
すると男は合点がいったらしく、
「よく言われるよ。ま、気にするな」と笑った。
さて、青年を見つけた男は、しばらくは何をするでもなくただ眺めていた。シギショアラの冬の夜は暗く寒い。そんな環境だから、いくら人目を惹く人間がいたからといって、陽気に友人を増やそうだなんて気分にはならないだろう、というのが男の言い分だ。だが、彼は気づいてしまったのである。青年のコートの下は裸で、そのところどころに打撲痕があるということに。
二十も半ばにはなっているだろう、青年のしなやかな体躯はしかし無造作に投げ出され、街にあふれたストリートチルドレン同様の逞しさと悲哀を秘めているように見えた。だから、放っておけなかったのだという。粗野な外見や言動に反してなかなかの善人のようだ。
「立てるか?」と男は訊いた。
「お構いなく」と青年は答えた。案外しっかりした声だった。
何を言っても反応はどこにでもいる普通の青年のそれで、しかしやはり見え隠れする素肌は痛々しく、とうとう男は青年を自分の宿泊する部屋へと誘ったのだった。
ホテルの前まではおとなしくついてきた青年は、扉の前でふと戸惑いを見せたようだ。男が手を引いても、一向に動こうとしない。これはやはり、勘違いされているのだろうか。男は苦笑しながら頭を掻き、言った。
「べつに変なことァしねぇよ。ちょっと傷の手当てさせてくれりゃぁそれでいい。いいから入れ」
すると青年はやけに素直に従い、呆気にとられる男を尻目にすたすたと歩き始めたのだった。
◆
「俺の部屋の前でも同じようなやりとりをした。つまりあいつは、俺の許可を待っていたわけだ。それだけでも怪しいが、決定的だったのは名前だな」
男は嬉々として話す。
「アルカードって名乗ったんだよ、あいつ。まったく笑っちまうだろう」
言葉どおり男は楽しそうに笑ったが、私にはいまいち呑みこめない。男はそれに気づくと、呆れたように肩をすくめた。
「あんた、ブラム・ストーカーの名作を知らないのかい」
それくらい知っている。知っているが、そう小馬鹿にしたような顔をされたのでは、答えたくもなくなるというものだ。私はむっと黙っていた。すると男はやれやれといった様子で
「ドラキュラを逆から読んでみな」
と教えてくれた。
「ああ、なるほど」
「あんた、そんなんじゃこの街は楽しめないだろう」
男はため息をつき、ビールを呷った。
シギショアラには、ドラキュラのモデルといわれるワラキア公ヴラド三世の生家がある。それを目的に街を訪れる者も多いらしいが、現在はレストランになっているその建物は、特別ドラキュラ伯爵に興味のない私にとっては、中世の内装を残すなかなか雰囲気のよい観光スポットでしかない。ちなみに料理の味は、とりたてて書くほどのものではなかった。
そもそも私は中世の空気に浸るためにこの街へやって来たのだから、別にブラム・ストーカーの著作を研究する必要もないし、その無知を非難されるいわれもない。しかし吸血鬼に傾倒しているらしい男にとっては、そうはいかないようだ。
「吸血鬼は許可を得ないと初めて訪れる部屋には入れない、これは知ってるな?」
「聞いたことはあるかな」
「ジーザス! 本当に何も知らないんだな」
「でもこれは知っているよ、吸血鬼に愛された人間は不老不死を手に入れる」
これは母の受け売りだ。母もオカルトにはとんと興味がなかったが、これだけはよく夢見がちに話していた。父の影響だそうだ。
「はぁん、ロマンチストだな」
「どうも。それで、あなたと青年の話は?」
いつまで待っても進まない話を促すと、男はわざとらしく咳払いをした。
◆
青年は意外によく笑い、よく食べた。「傷が癒えるまでいればいい」と男が言えば「ならありがたくご厚意に甘えることにします」と頭を下げた。
昼間、男がホテルから出ていくと、青年は留まり部屋の掃除をする。朝、男が新聞を読んでいれば、さりげなくコーヒーを淹れる。その慣れた様子に男はますます疑念を抱いたが、口にはしなかった。
その頃、男にも悩みがあったのである。
「女房にな、追い出されちまったってわけさ」
なるほど男は、それでひとりルーマニアへと逃げ込んだのだ。それを青年に話すと、「戻りたいですか」と瞳を覗かれたので、慌てて逸らした。そこで目を合わせたら逃れられなくなる気がした、と男は語った。
共同生活も三日目になると、相手の些細なしぐさにも目が向くようになる。青年は遠くを見る時、いつも目を細めた。それは細かい文字を読む時も同様で、じきに男は、彼の視力の悪さに気付いた。
「かけてみるか」と男は自分の眼鏡を差し出した。
「お前さんのほうが似合いそうだ」
実際、華奢な銀フレームは青年によく似合った。ふわりとゆるんだヘーゼルグリーンの瞳は、透明なレンズを通すと一層よく輝いた。
その夜、はじめてふたりで出かけた。深夜零時、鐘は鳴ったが、やはり時計のからくりは動かなかった。
そして、ニューイヤーズ・イブの日没。男は突然、妻からの連絡を受けるのである。その時何を聞いたのか、男は語らない。とにかく途端に脱力し、ベッドに転がったという。青年が呼びかけても応えず、死体のように四肢を投げ出した。
それから、ひと眠りしてしまったのだろう、気づけば辺りは真っ暗で、窓の外に人の気配はない。おそろしく静かな室内にはベッドランプだけが灯り、その光を受けた青年がじっと男を見つめていた。
男はすぐに荷物を纏めはじめた。
「どこへ行くんですか」と青年が問うので
「帰るんだよ」と答えた。
じっとその様子を見つめていた青年が動いたのは、男が荷物を持ちドアノブに手をかけた時である。
驚くほどの力で引き寄せられ、唇を奪われた。まさしく一瞬の出来事であった。
男は驚いて突き放そうとするが、青年はなおも腕に力を込める。やがて恐ろしくなった男は怒鳴った。
「やめろ、そういう趣味はない」
青年は視線すらそらさず、
「知ってますよ、そんなこと」
とまっすぐに言った。
◆
それからのことは、ほとんど覚えていないという。
「ぼうっとかすむ視界といやに蒸し暑い空気の隅で、新年を祝う花火と鐘の音を聞いた。そんでよくわからねぇまま朝目覚めてみたらどうだ、俺は素っ裸で寝転がってるし、ヤツも荷物も綺麗さっぱりなくなってたんだよ!」
私は聞き終えて、盛大なため息をついた。この男、馬鹿ではないのか。
「要するに、盗難被害に遭ったんだろう」
すると男は
「ま、そういうこったな」
と豪快に笑った。
「何が吸血鬼だ、ただの盗人じゃあないか。届けは出したのかい」
「いいや、俺ァもうなんだかそいつにぞっこんでね。唯一残ってたこのコートを手掛かりに、いつかとっ捕まえてやろうと探し続けてるってわけだ」
なかなか面白かっただろう、と男はさらに笑った。世の中には、救い難い人間がいるものである。
私自身もその種類に入るのかもしれないと自覚したのは、その直後のことだ。あろうことか、私は余計なことを自ら口にしてしまったのである。
「それなら私の方がよっぽど面白い。何しろ私は吸血鬼の息子だからね」
◆
この話を、他人にするのは初めてだ。
私は父を知らない。顔も知らない。声も知らない。名前すら知らない。ただ、母の昔語りの中だけに、私はその存在を見出していた。
実家の庭に、ライラックの茂みがある。母が好んだ花だ。その茂みに、父は気づいたら潜んでいて、それから五日間、母と共に過ごし、去った。
たった五日の間に、母は父の何を知ったというのだろう。少なくとも、母の語る父の中に、私は真実を見なかった。母の愛した顔を鏡の向こうに見るたび、私は言い知れぬ恐怖を感じた。
母はたぶん、単純に人というものに飢えていたのだ。彼女は幼い頃に父親をなくした。母親はその後何度か数人の男を連れ込み、やがて出て行った。十五で彼女は家主となり、十八で私を産み、そして、三十になる前に死んだ。
「わたしは死なないのよ、吸血鬼に愛されたから」
父の残した唯一の品を指で弄びながら、いつもそう言っていた母のあっけない死は、いっそう私を父から遠ざけた。
「哀れな人だったんだろうね。両親にも愛した人にも捨てられて」
黙って聞いていた男は、
「そいつぁ耳が痛いな」と力なく笑った。
そういえば、男は「女房も娘もいた」と言っていた。では男は、あの電話のあと結局一度も家に帰っていないのだろう。
「あなたは帰って、奥さんと娘さんに会うべきだ」
私は熱意をもって訴えた。男は珍しく困ったように「だから、会えないんだよ」と答えた。
「女房も娘も、とっくに死んじまってる」
ぬるくなったビールで舌を潤し、男はひとりごとのように言った。
「罪悪感がないわけじゃぁなかったさ。そもそも女房に追い出されたのも俺がふがいないせいだ。けどあの夜以来、俺ぁもう戻ってこれなくなっちまった」
男は空になったグラスを置いて、時計塔を指さした。今は動く気配のない人形が、夏の眩しい陽に照らされている。
「あのからくりな、本当は動いてたんだ。簡単なことだよ、裏側にまわって見りゃあよかったんだ」
◆
時計の針は、淀むことなく動き続けている。
男はしっかりひとり分のビール代金を支払うと、コートを大事そうに抱えて席を立った。
「それじゃあな、楽しかったぜ。よい旅を」
私はそれに答えることなく、その背中を見送った。
ふと、瞼の奥に母の姿を見た。父の形見を身につけてライラックの手入れをする母の姿は、間違いなく私の幸福だった。では何が彼女の世界を輝かせていたかというと、それは父と過ごした日の記憶だったのだ。
男にとってのシギショアラの五日間もまた同じだったのだろう。では、時計塔の青年の目には、世界はどのように映っていたのだろう。
私はそっと指を伸ばし、胸ポケットに触れた。硬く冷たい感触が返ってくる。そのままゆっくりと引き出せば、銀色の華奢なフレームが、きらりと陽光を反射した。
母の存命時には触れることさえ許されなかった父の形見を通して、時の止まった街を見る。レンズに刻まれた積年の傷は、景色を古写真のようにくすませた。
広場は祭りの準備をする人たちが行き交い、活気を見せている。先ほど別れた男の若々しい背中が、その中に消えていった。
私は、母のために泣いた。
初出:言葉遊山 第八葉
(ページ数完全限定、読み切り強制、お題クリア絶対条件の小説アンソロジー)
【お題】
ジャンル指定:恋愛もの
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