※作中に一部差別的な意味合いのある用語を用いていますが、時代や世界観を表現するためのものであり、特定の人や病気を誹謗中傷したり、またそれを促したりする目的はございません。
零
忘れられない景色がある。
見上げた先のきらめく水面と、目映ゆい空。それは己の世界ではないのだと、覗き込む無数の歪んだ顔が告げていた。
それでも何かを伝えようと、叫ぶ。声は大小の泡になって、やがて消えた。
そのとき感じたのは絶望だったか。いや、おそらく自分は感動していたのだろう。
ちいさく弾ける光が、これほどまでに美しいものだとは知らなかったから。射し込む朝陽が、こんなにも清々しいものだとは思わなかったから。
これならもういい、と目を閉じる瞬間、目の端に映った不可思議を覚えている。
ゆらゆらと揺れる七色の姿、その美しさを、いまでも忘れることができない。
壱
冬の村は、いっそう侘しくなる。薄く積もった雪が枯れた草木を濡らして、いまにも消えそうにしがみついている。泥混じりの山道を行きながら、ゼンはひっそりとした田畑を見下ろした。
今年の秋は駄目だった。冬を越せるかもわからぬのだから、村長の婆の渋り顔も当然だ。それでも出さぬわけにはいかないから、いまゼンの背にはこうして米が担がれている。
村の者は、きっと粟や稗や芋の茎なんぞで過ごすのだろう。だが自分たちにだけ与えられたこの米を、別段ありがたいとも思わなかった。
村のはずれもはずれ、山の腹に、ゼンたちの冬の住まいはある。煤けた鳥居をくぐると、小さな社が見える。その神域が彼らの寝屋であり、獄であった。
「帰ったか」
泥を払って戸に手を掛けると、奥の暗がりから冴えた声が響いた。
「ああ」
短く答えてさっと戸を閉める。長く開けておくとうるさい。雪の乏しい明りが彼を苛むからだ。
「お元気だったか」
お婆様は、とは言わなかった。彼がいつも言葉が少ない。だから自分でなくてはいけないのだ、とゼンは思う。
「ああ。――米だ」
とす、と放り出すと、衝立のむこうの気配が動いた。
「……少なかったのだな」
「そうでもない」
彼が冬を越せる分はある。ゼンにはそれで充分で、それがすべてなのであった。
行灯に火を入れようとすると、とたんに非難の声があがった。構わずに続ける。不機嫌そうに、衝立がガタンと揺れた。
彼の白い手がちらり覗いたので、すかさず掴んだ。いつものように払いのけられた。だから自分から衝立の奥へと踏み込んだ。
「眩しいと言っている」
行灯も一緒に持ち込んだので、その険しい表情が露わになる。繊細な輪郭の中に、憤りをぶつけるような、怯えるような、蔑むような淡紅色の目が、きつく細められていた。
――ああ、この目だ。
昔、まだ幼かった彼に名を訊いたとき、
「セツ」
とさもつまらなそうに答えたその目が、ちょうどこんな具合に鈍く輝いていたのだった。その瞬間、ゼンはこの生き方を決めたのだ。
すべらかな頬に手を伸ばす。セツはうるさそうに眉をひそめたが、今度は抵抗しなかった。そのまま着物の襟に触れても、冷めた視線が返ってくるだけだ。
初めて枕を交わしたのは、いつだったか。
あの日もこうして半端な雪が降っていて、重い明かりが揺れていた。そしてやはりつまらなそうに、セツはそれを受け入れたのだった。
セツが嫌う行灯の光を、ゼンはけっこう気に入っている。肩まで伸びた白金の髪がやがて布団の上に散らされて、あの透き通るような赤目にほんの少しかかったとき、セツの美しさは凄絶なものになる。それから乳白色の肌が染まってゆく様を、なめらかな行灯の火が映し出すのだ。これほど胸に迫る光景が他にあろうか。
龍の子。まったくそう呼ばれるにふさわしい気高さで、セツはそこに在る。
熱に浮かされ、汗で額に張り付いた髪の一本までも、崇高な魂が宿っている。
その魂を、こうして貪ることを許されている自分に、ゼンは満足していた。ただ、ひとつ、許されないことがある。
どんなに互いを求めても、その吐息を重ねたことは、一度もなかった。
弐
春告鳥の唄う頃になると、新月の夜、二人は山を下りて本邸に移る。
村人は一応総出で迎えるが、その顔は陰気で濁っている。その中を歩くことを、セツは何よりも嫌っていた。
「よくおいでだね、今年もよろしく頼みます」
村長の婆が、じっと儀礼的に言った。セツは軽く頭を下げると、さっさと自分の持ち場へ向かう。セツの祖母である村長の家、その一角、陽の当らない狭い部屋が、この時期のセツの「仕事場」であった。
部屋に入ると、ほう、と息をついた。なんだかんだで、自分が生まれたこの場所をセツはそれなりに気に入っているらしい。
ゼンはというと、落ち着かない。いくら廊で隔たれているとはいえ、セツ以外の人間と暮らす空間など気味が悪い。しかしわざわざ二人のもとを訪ねる者もなかったので、その生活は冬のそれとほとんど変わらなかった。
朝は手水や朝餉を用意し、生糸のような髪を梳く。昼は適当に時間をつぶして夜を待つ。陽の出ている間はセツの機嫌が悪いので手を焼くのだ。陽の光は彼にとって凶器でしかない。目や肌がたまらなく痛むのだという。夜になって機嫌が直ればそぞろ歩くこともある。月光の下、やはり彼は美しい。そして一日の終わりには、その月光を湛えた肌をくまなくぬぐってやり、時に味わう。
これに、春夏はもうひとつ仕事が加わる。
水を張った耳盥の上にセツの華奢な腕が差し出されると、おもむろにその儀式は始まる。セツが胸元から取り出した小刀をゼンが受け取り、冷たい刃をぬくい肌に滑らせる。うっすらとにじんだ血が、やがて雫となって漆器の黒に溶け込んでゆく。その様を、ほんの少しだけ目を細めながら、セツはいつも淡々と見届けた。
「もうよい」
とセツが告げるまで、神聖な静寂は続く。それからゼンはすばやく止血を施して、耳盥を村長のもとへ運ぶのだ。
この仕事によって、セツの腕は毎年傷だらけになる。だがそんなことは、村人たちも、当の本人もまったく意に介さないようだった。ただ確実に、傷跡だけが増えてゆく。
セツは、この命を分け与えた水が、幼い稲に吸い取られてゆく光景を目にしたことがない。ただ、皆が寝静まる頃になると、ふっと寝床を抜け出して、愛おしむように、さして広くない棚田を眺めるのだった。
そうして毎日、セツは血を流す。そうすることで、稲が健やかに育つのだと、皆が信じていた。
いつだったか、セツに訊ねたことがある。本当にお前の血にはそんな力があるのか、このような仕打ちを理不尽には思わぬのか、と。
セツはやはりいつものように、
「あろうとなかろうと、これが私の役目だ」
と答えた。
ゼンは打ちのめされたような心地で、ただ漠然とした苛立ちを募らせた。
思えば出会ったときから、そのある種の切なさは成長し続けているらしい。
龍の子と呼ばれる者がいると聞いて、おもしろそうだとゼンがこの村にやってきてからはや幾歳。幼子だったセツはとうに成人している。その間、外へ出ようと何度誘ったか知れない。そのたびにセツは村の端にゼンを連れ出し、そこに鎮座する沼を指さしてこう言った。
「これを持ち出せるのなら」
はじめてそれを聞いた時、なにを言い出すのかと笑おうとするのを遮って、セツが囀った奇妙な言葉を、ゼンは一字一句違えずに思い出すことができる。
「待っているのだ」
――虹が出るのを、待っている。
参
唐突に、セツが自分の身の上を語りだしたのは、蝉も煩い夏の盛りのことである。
連日の務めのせいか顔を青白くして仰臥しながら、それでもなお耳盥に腕を預けて言うのだ。
自分は両親を知らないが、きっとやさしい人たちだったに違いない。でなければ、白子の自分がいまこうして生きていられるはずがない。
あの沼に贄として沈められたときもそうだ。皆は龍が自分を助けたのだと言うが、そんなはずはない、あれは両親だったのだ。我が子を哀れと思って、特別な血をくれたのだ。その証拠にどうだ、皆それからは、自分を大切にしてくれるではないか。
一気に吐き出すと、気を失うように眠りについた。初めてのことであった。
ゼンは、いっそう細くなったセツの腕を見た。その傷跡が背負う思いを抱きしめるように、流れる血潮に口づけた。
晩夏になると、セツの本邸での仕事は終わる。冬の社へ帰るのである。
今年の稲はだいぶ良さそうだった。いつもは見送りなどしない村長が、出立の朝訪ねてきた。一緒に住んでいると言っても、セツと村長が顔を合わせることなどない。ゼンは何事かと訝しんだが、セツはいつもの無表情を心なしか崩していた。
「ゼン、少し出ておくれでないかい」
村長のしわがれた声ではゼンは動かない。だがセツが、
「ゼン」
と穏やかに呼ぶので、従うほかなかった。
その夜、二人はひっそりと山へ帰った。村人たちが、家の中からじっとり見つめているのを感じた。
帰る途中、あの沼の傍を通った。短い命を燃やした蝉が、ぽとりと足元に落ちた。
久しぶりの二人だけの住まいは、埃のにおいがした。毎年それで責められるから、ちょっと床だけでも洗ってしまおうと考えていたゼンの背に、ふと、ぬくい重みがかかった。
ゆっくりと、何かの儀式のようにまわされる腕に驚きながら、少しだけ振り向いて、うつむいた白金の頭を見下ろした。それから解かれた帯が床に落ちるのを、黙って見届けた。
月光の下で肌を合わせるのは初めてだった。
開けた戸もそのままに、布団も敷かずに求めあった。行灯とは違う冴えた光が、互いをよく映し出していた。
普段は目を合わせようともしないセツが、両腕を精いっぱい伸ばしてくる。その手が触れるたびに、指を絡めるたびに、言い知れぬ痛みを覚えた。
なんという痛みか。ああこれが、物語らう(※)ということなのか――
ふいに、乱れきらめく髪の中に、ゼンは見覚えのないものを見つけた。それはたしかにセツの淡紅色の双眸で、ゼンの愛する不変の光なのだったが、まるで雨に濡れたように、深く輝いているのであった。
そこからあふれた雫が月光を受けて頬を流れるのを、ゼンは不思議な心もちで眺めた。
思わず、それを唇で拭い、そのまま辿って、未だ触れたことのない、荒い息を吐き出すその場所に重ねようとした。だが、それは叶わなかった。
触れる寸前、セツが顔を背けぽつりと言ったのだ。
「許せ」
と。
「まだ、崩れたくない」
許せ、許せよ――
そう言って、ゼンの唇を震える指でなぞりながら、セツはとめどなく涙を流した。
肆
秋は、例年より遅れてやって来た。もうすっかり稲は黄金の穂を重く垂らして、億劫そうに風に揺られていた。
引き換え、セツの状態は悪かった。夜になっても出歩こうとしなくなった。腕は折れそうに細くなり、目もとには影が落ちた。行灯の火にも反応しなくなった。
ただ、ゼンが一房、稲を持ち帰ったときには、菩薩のように手に取って飽くことなく眺めては、そっと胸に寄せていた。伏せた睫毛が震えていた。
「出るか、村を」
とうとうゼンは、ぽつりと切り出した。二度瞬きするほどの間があって、
「……そうだな」
と、こちらもぽつりと答えた。
「本当か」
「ああ」
「本当なんだな」
「ああ」
ゼンはとても信じられなかった。今までだって何度こうして問いかけたかわからない。そのたびに、外は眩しすぎるから、と拒絶されてきたのだ。
「――虹を」
か細い声が続く。
「虹を、見たい。空にかかる虹」
信じられなかった。笑っている。ほんの、ほんの微か、一見わからぬほどだが、あのセツが、笑みを浮かべているのだった。
「いくらでも見ればいい。どこへでも連れて行ってやる。海だって見せてやる」
「うん」
「支度しよう」
ゼンはいよいよ嬉しくなった。突然の心変わりが少し気にならないではなかったが、たいしたことではない。それよりやっと、ここからセツを連れ出せるのだ。外を見て回るのだ、二人で。
さっそく、ゼンは荷をまとめ始めた。出るなら早いほうがいい。誰かに見つかりでもしたら厄介だ。今夜のうちに山を降りて、それから……
「ゼン」
広々とした空気に思いを馳せていると、これまでに聞いたことのないような声で呼ばれた。静かな声が続いた。
「お婆様や皆にご挨拶を」
途端、ゼンは激昂した。なにを莫迦なことを言うのか!
「礼を欠いてはいけない。他の者が食えない米を我々は食ろうてきたのだ」
「しかし」
「ゼン」
その、見つめる瞳が、おだやかな輝きがあまりに美しかったので、ゼンはもう何も言えなかった。
「私はちょっとしんどいから、おまえ、行ってきておくれ」
――待っているから。
結局、ゼンは逆らえなかった。虫も鳴かぬ深夜、村長を訪ねた。村長は起きていた。
村長は意外にも、応々とゼンの話を聞き、
「なれば気をつけて」
と頷いた。それから、いろいろ持たせてやろう、用意するから待て、と言って、ゼンを残して出て行った。
どうにも腑に落ちないが、セツにああ言われては動けない。おとなしくしていたが、いくら待っても村長は戻ってこなかった。よもや、と思い部屋を出ようとすると、やはり戸が開かない。
「セツはうまくやってくれたようだね」
外から婆の声が聞こえた。
「あの子は今日、都へ行くよ。もう戻らぬ」
腸が煮え返るようだった。叫んでいた。
「あいつはおれと行くのだ」
「おう、おう、行くがええ、その老いも知らん気味悪い体を、掻っ捌かれてくるがええ」
ゼンは唸った。
「いくら貰う、おれたちで」
婆はひょう、と
「さあてねえ」
と答えた。
何も考えられなくなった。村中に獣の咆哮のような、嵐のような音が響いて、村長の家がベキベキと倒れた。婆の、ヒッという声が聞こえた。
龍が現れた。夜明けを待つ空に七色の鱗を光らせて、それはさながら、虹であった。
龍が尾を振ると、風が吹いて木々を薙いだ。龍が吼えると、雨が屋根屋根を叩いた。村はたちまちごうごう、うねる川となって流れていった。
陽が、清い光をおずおずと覗かせるころには、そこらはすっかり洗われていた。
ゼンはその中に立っていた。水浸しの稲が、黄金の波を寄せていた。
セツを、迎えに行かねばならない。ばしゃりと足を踏み出す。と、ゼンはその先に愛しい姿を見つけた。
白金の髪が、陽光にきらめく。信じられないほど、綺麗だった。
ばしゃ、ばしゃりと、足音は速まる。
白金の髪が、風になびいて、それから、傾いだ。
手を伸ばせば受け止められる距離だった。それはいやにゆっくりと、ゼンの目に映った。
赤い命が、セツの首から迸って、死んだ稲にかかった。
ばしゃり、と、ひときわ大きな音がして、白金の髪が淀んだ水に散らされた。セツの手に握られていた小刀が、沈んでいった。
腹の底の振動を吐き出しながら、ゼンは夢中でセツの体を抱き上げた。あたたかい。あたたかいのに、掴みきれない。血が、止まらない。淡紅色の双眸が、見えない。こちらを見てくれない。
何度も、何度も呼びかけて、抱きしめて、訳がわからなくなったとき、ふと、唇に細い指が触れた。
唐突に焦点が合った。何よりも尊い、笑みがそこにあった。あの気高い目が、慈しむように細められて、弧を描く口元が、ちいさく震えた。
――なんだ、おまえか。
それから満足げに閉ざされて、それきり動かなかった。
陽は、ゆっくりと空を照らし、一面の青を描いた。
まぶしい朝だった。
虹が、どこまでも走っていた。
(※)物語らう=情を交わす
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