「なぜ人を殺してはいけないのか。考えを述べよ」
それが、高校最後の倫理のテストで、得点の半分以上を占めていたシンプルな問題文である。
私は「人がヒトを特別視しているから」という結論と、それに至るまでの考えを書いて提出した。
返ってきた答案は、ひどい点数だった。
もう十年以上も前のことである。いまだに納得できていない。
その問題は、テストで突然出てきたものではなかった。
たしか授業の集大成として、かなりの時間を割かれていた議題だったように思う。
生徒一人ひとりがそれぞれの意見を述べ、それから専門家(つまり思想家、哲学者)の見解を学んだ。
それを踏まえての最終的な結論を、テスト問題で問われたというわけである。
授業では、私は「人は人を食べないから」と答えた。
まだ考えがまとまっていなかったのだ。
ずいぶんと浅い答えだが、急に「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われてとっさに答えたにしてはよくがんばったのではないかと、若き日の私をなぐさめておく。
実際、これはまだいい答えだった。
専門家のなかにも同じ意見があったくらいである。そうなるとその専門家の専門家たるゆえんを疑いたくなるが、いまは問わないこととする。
ほかの生徒から出た、
「家族が悲しむから」
とか
「大切ないのちだから」
とか
「法律で禁止されているから」
とか
「殺された人の未来を奪うから」
などという意見には失望を通り越して憤りすら覚えた。
母校において、倫理は必修科目ではなく選択科目だった。
それをわざわざ選んでいるのである。思想、哲学、宗教、そういったものにみな興味があって、さぞかし面白い回答が続出するだろうと、私は愚かにもそう思っていたのである。
私の回答もまったく根本の解決に至っていなかったし、人間の本質に迫るものは何もなかった、だが、ほかの生徒の回答はあまりに無関心で、適当で、稚拙だった。
しかし、私の意見よりも彼らの意見のほうが先生には好意的に捉えられた。
「倫理的」だったからであろう。
専門家の見解を聞いてもどれも納得できなかった。
もはや何も覚えていないが、だれもかれも「その根本」を解き明かそうとはしていなかったように思える。
専門家もこんなものかとため息をついたものである。
私は「なぜ人を殺してはいけないのか」と最初に問われた授業から、最後のテストのときまで、そのことについてずっと考え続けていた。
間違いなく、私は最も真剣で熱心な生徒だった。
まず私が最初に考えた、「人は人を食べないから」という意見について検証した。まったくもって、これは成立しない。
場合によって、人は人を食料とする。それに、これでは「食料とするための殺人」は容認されることになる。
ほかの生徒の意見についても考えた。
彼らの言い分はただの感情論であり、検証にも値しなかったが、おおいに参考にはなった。
つまり、人が人についてこのように考えるから「殺人」が容認されないのである。
ではなぜそのように考えるのか。
それらの考えをすべて統括し、そのすべての根源として納得させられる理由が、
「人がヒトを特別視しているから」
であった。
この結論はじつに私を満足させた。
と同時にさらに深い思考をもたらした。
ではなぜ、「人がヒトを特別視するようになったか」ということである。
これはもうヒトという動物について考えなければならなかった。
導き出した仮説はこうである。
「ヒトという動物を特別視するようになったことにより、人は繁栄を得た」。
つまりはヒトという動物の能力、あるいは特異な性質であったということだ。
むろん、これは素人の勝手な妄想であり憶測である。私は大学にも行かなかったし、なんの専門知識も持たない。
いまさらながら、この記事に対しての意見や議論は求めていないことをお断りしておく。私はただただ、ひどい点数をつけられた自身の持論を今一度ここで喚き散らしたいだけである。
ヒトという動物を特別視するようになった人は、「人を殺してはいけない」と考え、それに則って行動するようになった。
共同体を作り上げ、種の生存率を上げたのだ。
実際、我々ヒトの犬歯は縄張り争いをする他の霊長類に比べてはるかに小さく短い。ヒト同士での争いを避けたことによって繁栄を実現したことを示す、進化のあかしである。
だからこそ、「殺人」は特別な行為となり得る。
それを忌むのもそれに惹かれるのも説明がつくように思われる。
「なぜ人を殺してはいけないのか」。
それは、それが種の存続のためにヒトという動物が生み出した倫理という戦略だからだ。
人がヒトを特別視しているからだ。
それにヒトが進化の過程で身に着けた感情を上乗せして生まれたのが、現代の社会なのだ。
と、ここまで書いたところで、なるほどたしかに「倫理」の授業の回答としてはいささか的を外しているようにも、わずかばかり、いまならば思える。(倫理が「人間」あるいは「人間としての生き方」を考えるための学問であるならば決して間違ってはいないとも思うが)
ただ、私はこれ以外に納得のできる答えを見出せない。
そもそもこの問題こそが間違っているようにさえ思える。
そしてやはり、先生の採点にはおおいに異議を唱えたいのである。